罪悪感。やっぱりこのワードは人生の変化には
外せないのかもしれない。生理前の神経過敏期。
どうしても出て来てしまう。根元から断ち切る
って難しいんだなぁ。自信がないものを人に与え
たりなんかできない。根拠のない不信が亡霊の
ように付き纏う。何をするにも、やりたいなとか、
与えられたことを丁寧にやってみようとかいう
時に、亡霊がお前なんかにできるはずないとか、
やっぱり駄目なんだよ、人間味のないやつだ、
ほら人が離れていくぞ、とか囁いてきて、怖く
なって周りが見えなくなって、やりたいことって
自信から生まれるものだから、それが不安定だと、
とても役に立つレベルになど到達しない。こちら
の不安定など関係ないのに。準備が整っていない
とスタートできないというのは恐怖の言い訳に
過ぎない。だからメンタルの不調に関係なく、
いいものを提供できる技術も必要だし、何より
不安定さを乗り越えることが重要だ。人間だから、
調子の悪い時もある。そういう時に技術が味方に
なるんだ。技術だけでは駄目なんて、プロが言う
セリフで、ペーペーの自分が発言することでは
ない。技術と自分のメンタル管理。当たり前
だけど大切なこと。自信が持てない時にどうする
か。もしかすると悪あがきしないことが大切なの
かも。上手く笑えないかもしれない。上手く人の
気持ちに寄り添えないかもしれない。上手く受け
答えできないかもしれない。目の輝きが失われて
いるかもしれない。でも、いいものだけは届ける。
そんな感じで。自信なんかなくても、自分の心が
不安定でも与えられるんだよ。すっかり囚われて
しまっていた。他人から何か言われたら立ち直れ
ない不安。自信がないからきっと、他人の言葉に
飲み込まれて傷付くだろう。でも、自分が傷付く
から何もできないということはない。傷付くのは
一時的だ。だって自分の価値というのは、どこま
でもイメージでしかない。価値だけでなく、全て
の出来事はそうだ。それが頭で分かっているから、
例え過去の記憶から恐怖が起こってしまったと
しても、それは悪夢のようなものだということが
頭の片隅にある。もう一度想像してみる。職場の
人間関係が上手く行かない。例えば相手の態度が
気に入らない。ただ仕事をしたいだけなのに。
相手のせいで傷付きが起こるので憎い。でも態度
を改めてくれとは言えないし、そんなことくらい
で気分を害するのも悔しい。相手に落ち度がある
のに感情に飲み込まれる理不尽さも全てに腹が
立つ。完全にネガティブな想念の中にいる。
ここからどうやって抜け出すのだろうか。まず
引っかかるのは、自分が傷付くということだ。
無価値感を持っているので物事が上手く行か
ないと、自分に不足があるせいだと責めている
のはあるだろう。恐怖が起こる。つまりそう
いうことだ。無価値感のエッセンスがある限り、
何が呼び水になるにせよ、自動的に恐怖が沸き
起こるようになっている。この場合、相手の
不機嫌な態度が検索エンジンに入力されて、
過去の記憶を参照し、恐怖を起動してしまった。
不足がある自分は生きていけない。酷い時は◯◯
ができない自分は死ぬべきなんだと。自分の意思
に関わらず。ここがポイントだ。勝手に起こる。
傷付くというのも、記憶が勝手に起こしている
ことだ。それを後付けで、何かの理由をつけて
ストーリー調にアレンジするのが自我である。
相手の性格が悪いから自分が被害を受けたとか、
自分の対応が悪いから問題が起きたとか。
相手の人間性が原因で傷付きや恐怖や怒りが
起こっているわけでなく、見聞きした情報や
言葉に反応して自分の過去の記憶すなわち
無価値感が発動しただけ。匂いや音楽が記憶を
引き出すように。もし、コミュニケーションに
おいて相手が自分を批判するような出来事が
あった時、相手の中でこれと同じことが
起こっていると考えられるかもしれない。
自分が発した何の意図もない情報が相手の
記憶を引き出し、被害者意識が起こっている。
それが悪循環を引き起こす。だからお互いに
非はないのだ。脳の勘違いが引き起こした惨事
とも言える。これは、全てのことにおいて
言えるのだろう。
全ての問題の原因は自分の中にあるということ。
そしてそれは自分のコントロールの外にある。
もっと言えば、自我が後付けで原因を作るので
あり、自分のせいでもない。コントロールできる
とすれば、記憶から勝手に起こる現象を自我が
気付いているということだけだ。問題とはなぜ
問題なのか。それを乗り越えられないかもしれ
ない不安。自信の反対。問題は誰かが起こすの
ではない。勝手に起こるのだ。自分がコント
ロールできる範疇ではない。不安になった時、
記憶が発動されたことを知り、ただ現象として
受け止め、自分のやるべきことを淡々とやる
だけ。そのために普段から技術を身につける
ための鍛錬をしているのだ。無価値感は、
幼少期の愛情や生きる手段を得るために他者に
依存する経験が無意識に残ったままになって
いるために起こるということを少しずつ理解
していけば、問題自体もいずれ消えて行くの
だろう。欲しいものを手に入れるために我慢
して何かを差し出し見返りを期待する。それが
得られなかった時落胆し、自分のせいでそれが
起こったと勘違いする。無価値感が生まれる。
我慢して差し出すことがいつの間にか当たり前
になる。本当はやりたくないのにという前提すら
忘れてしまう。差し出すのが当たり前、見返り
が得られた時快楽を覚え、得られない時、落胆と
無価値感を体験する。このプロセスの繰り返し。
欲しいものは親から得るものではなくなって
いるのに。古い体制が旧然と残っている。親の
代わりに仕事や社会や恋人や子供に変化させ
ながら。自立とはそういうこと。他立ではない。
欲しいものはもう他者から得る必要はない。
本当に欲しいものは何だったのですか。愛情や
生きる手段。人を愛したい。苦しみの仕組みを
知り、自分で欲しいものを得られるということ
に気付く、すなわち自立すること。全ての人に
自立が浸透することが私にとって人を愛すると
いうことなのかもしれない。自我を無くす必要も
ない。やっとここまで来た。