苦しく迷う毎日、自殺を視野に入れて崩れた生活をするのが何とも無駄に思える。誰も理解は出来ない事を持っている、もし僕が其れを表に出しても確立すらしていないのだから。けれど、其れは一人の話では無い。そうだと今は信じる、絶対に理解できないの一二は此の世に必要だ、でなければ傷付ける事の出来る人間の範囲は減って居て、僕もきっと自由な一面を増やせた筈だ。
誰か、誰か刺さない言葉を掛けて欲しい。最近は飛び降りも選択肢に入って居て、変に死にたいと思う。其の逆も強くなりとても死にたくない気持ちも溢れて居る。只苦しい、飛び降りる時どんな気持ちになるのか、見つかる前に行けるか、失敗しないか。もう戻りたくない、此の世に希望は無い。
もう死んだ方が良いだろうか。
遣りたい事ならある、たくさんある。けれど其れを出来る程の余裕が今は無い、治る見込みが精神病らしくもう幾年も、幾十年も下手を打てば無いだろう。其れを思い抱えて迄生きる価値が果して有るか。
「人間を好きになれない」
有り勝ちな気質か傷付けられた為の性格だが生きる理由を殺し過ぎてしまう問題が有る、問題としては大き過ぎる、物事への愛着が相当数持てない確固たる理由に必ず立つのだ。そして不信感は病魔と手を組む、結局、死ぬしか道は無いのか。其れとも今はまた、何回目すら数えられない「待て」をしろと言うのだろうか。
僕としては、自分を捨てて楽になりたい、解決ではなく抹消或いは解消を。自分は確かに愛せる程価値が無い、故に自分を捨ててしまうのだ。機械は理解出来ない無能でも憚らず言うと、溜まったキャッシュを削除する様な。いや、やはりデータごと消えてしまえ。
どうすればいい。どうして楽になれる。どうして僕は満たされる、僕の愛の形に触れられる。どうしたら今苦しいと感じる其れを潰せる。苦しいと、思う痛みを消す方法は。
唯一の希望に甘えたい、前より器は劣化し僕を楽しませてくれなくなった、軽い理解、集中力等の低下だろうな。「希望を抱いて死ぬ」、此れは大事だ。「実際に」が付いて居ない上「誰かと共に居られる」という架空を作り出し体感を想像し、僅少なるも安心を生む。
希望に浸りたい、苦痛さえ無ければ。没頭して居る間苦痛が伴わなければ幸せに浸りたい。生きる希望すら一つ、貴重な物が有るのに何故僕はこう理不尽にも、飛び降りの計画を考えなければならないのだろう。
皮肉な個人的芸術を話そう、死ぬ事を渇望する余り変化させられた価値観は芸術を変容させ、死ぬ希望を作って居る。病気だった「死にたい」は芸術を従えたのだ、「生命」を穢らわしく見てしまうのは、悪気ではない。僕は自分の持つ芸術観に逆らえないのだ、表面的な肯定なら幾らでもしている。
生きたかろうが死にたかろうが、変わらない。何方にも希望が在ってしまう。
僕にとって「死んだ後」は未知で最高の理想に成り果てたのだ。未熟で済まないと思うが。
僕にとって「生きている間」は既知で最悪の現状に変化を続けている、自殺したい理由も中々、下らないと思えばつい抱えてしまうものだ。
只楽な所へ行きたい、理想を追い叶えたい、孤独と悪い嘘の無い安寧を生きたい。僕にとって漸く「ひと」に見える大切な存在と共に暮らしたい。
思えば、此れだけだ。