世界はどんよりと、でもキラキラしている。
道端の小石も、雲の形も、雨の日の電灯の反射も、階段の途中から見える景色も、大体すき。
それなのに私は息苦しさを抱えている。気持ちの話じゃなくて、物理的に。
薬を飲むと少し楽になる。
音楽を聴くのが好きなのだけど、日によって全然聴けない時もある。この曲なら、バンドなら、とか、このピアニストなら、とか、上手くはまって聴ける時もあるけど、それを見つけられない日も多い。好きだけど聴けていない曲たち、今日も元気にしてますか?
薬と、耳栓と、ハンカチは必須。
目は自分で閉じれるので大丈夫だけど、口と鼻をハンカチで塞いだら耳はがら空きなので。
長らくイヤホンを音楽流さずに付けていたんだけど、耳栓の方が静かになるし、外し忘れてしまう、という失礼がない。(イヤホンはたまに付けているのを忘れて、側から見たら音楽聴いたままレジ、みたいな失礼をかましてしまうからね)
ただそこまでして生きる必要ってあるのかな?と思う。
私にはハッピーがいっぱいある。
好きな作家さんの新刊とか、好きなバンドの新譜とか、友達との楽しい約束、スタバの新作、推したちの進展、未来への楽しみだっていっぱいある。
でもそれと苦しみを天秤にかけた時、苦しみの方がすぐ沈んでしまう。苦しみには理由がないから、未来永劫付きまとわれるんじゃないか、と思ってしまう。少なくとも10数年は付きまとわれているし。
シンデレラ城に住みたいけど、無理だろうな、と大抵の人は思う。でもはちゃめちゃ金持ちの権力者の娘だったら、無理とは思わないだろう。住めるか、或いは何で住めないの!と憤るか。
私は海外に行きたい。けれど無理だ。
飛行機に乗れない。みんなは乗れるって!とか、病院の先生も治療進めば!とか言ってくるけれど、私の中での海外はシンデレラ城と一緒だ。別に叶わないことが当たり前だから、たまに叶えられる人が羨ましくなることもあるけど、でも現実味のなさすぎる話。ドラマの中だけでしょ?
こんなことが沢山ある。
周りが当たり前に出来るはずだよ!頑張って治そう、可哀想、と私に強いてくる。
私は別に乗り物に乗れなくても不便とは思わない。それが当たり前なのだ。
でも世間は、乗ろうよ!と袖を引っ張る。
シンデレラ城、1千万で泊まれるからさ!行こ!と。
世間が袖を引っ張らないでくれて、私が苦しさから逃げて生きて良いなら別に死ぬほどでもない。ただ苦しい(物理)方に引っ張っていって、いや苦しいんで無理、と立ち止まると「可哀想」と哀れまれる。
マッチ売りの少女とか、フランダースの犬のネロとかと私を勘違いしていない?
もっと言えば彼らだって別に満足してた訳だし、可哀想なんかじゃないかもよ?
とまで打って、いや、私は彼らを哀れんでいる。可哀想だと思う。
最期に幸せの幻想を、憧れの絵を、見れた2人だけれども、到底幸せとは思えない。可哀想だ。
そうしてやっぱり私は可哀想なのか、それが世間の総意なのか、と思う。
とするとやっぱりこの世界で生きるのはしんどいなあ。
死にたい訳じゃないの、生きるのをやめたい。