烏羽
(長くなったので、もし読まれる時は、お時間などに気を付けて下さい)
死が無かどうか、それは解らない。
死んだ後どうなるかなんて、生きている人間には解らない。
少なくとも、どうなのか俺に確証は持てない。
だから俺は、「死は無かもしれない」と仮定してもいる訳だが、来世はあるかもしれないとも思うし、ご先祖様の墓やら、神棚やら、そういったものへ向けて会話のような事をしたりもする。
死後の世界の存在を否定はしないよ。
(心当たりはあるので、言わせて貰えるのならば、話の流れから、それらのどれか一つを仮定し、話が進む事もあるので、もし宛メの中で、俺のそういう返事が不快だったという事なら申し訳ない。俺の勘違いだったなら、その周りの話はスルーして頂けると助かります)
ただし、個人的に、否定しないと思ってはいても、確証のない事はどうにも、自分の取れない範囲の責任として言いたくない事があるので、無いものとして扱ってしまう事がある。
その点、気を付けるように努めたいと思う。
ちょっと角の立つ言い方かもしれないが、「やったもん勝ち」という考え方や認識を決めるのは、その人それぞれだとも思う。
(やったもん勝ちで、やられ損なのかと言われると、そういう状況もあるし、そうじゃない状況もあるから個人的には一様に判断できない)
また、この状況、俺の立場から、正直かなり憚られるが、様々なものことに対しての考え、認識や判断から、どのような行動へと移るのかが、人それぞれが背負う事の出来る責任って奴じゃないんだろうか。
修行だと思うも、来世があると思うも、それは人それぞれの考えや、宗教、生きる上での心の支え、あるいは一時一瞬の人が為せる愛って奴なのだろう。
(認識や判断からする、行動の種類の話)
この世の殆どの事なんて、ちっぽけな自分、延いては人間が正しく認識できるのか、そもそも真実を正しく認識できているのかどうかすら怪しいと思ってる。
だから、考えの足場のようなものへと、自信が持てない時、こうではないかああではないかと、何か、信じようともするんじゃないだろうか。
その点、無駄かどうかという判断は、誰か何かに縋り、それに頼るではなく、根本としては人の言葉じゃない、自分の感覚で判断するものだと思う。
(人の言葉や宗教などの教えという、支えを、情報として含めた上で、自分の感覚)
生きている限りは、意味があるかないか、自分で行動して作り上げる事が出来る。
人間が言葉を作れたように、物事に対して意味や理由を考える事が出来る訳だ。
だからこそ、生きている限りは終わりじゃない。
生きている事自体が、意味の継続に繋がる。そう考える事も出来る。
意味の継続。つまり、生きているというのは、意味を作り続けている事、(多少だとしても)行動の余地があるという事でもあると思う。
だからこそ、生ある限り可能性があるからこそ、良い先へ、繋がる事を信じるのだと、そう信じる事が一つの支えになる事もあるのだと考える。
また、多くの古くからある宗教の経典には、この世の不条理や不公平に対してどう対応すれば良いのか、どう考える事で凌げるのか、大体書いてあるように思う。
この世の不条理や、理不尽さに、心折られないように。
折れる程に心が傷付いたとしても、立ち上がれるように。
心を救うためにも、そういう「教え」って考え方や、倫理観…、いわゆる道徳って奴があるんじゃないかね。
で、それを否定されたのだと推測する上、もしかしたら自分のせいで傷付かれたのではないかという身の上からして言える立場ではないのだが…
否定された事で残酷な、ショックの大きい事柄が見えてくる時、小瓶主さんは、今までの考え方に関して、どうしたいだろうか。
信じ続けるか。新たに意味を考えるか。
他にもやり方は書き切れない程に色々あると思うが…、そこで思い悩む事は、無駄ではないと、無駄にはならないと、意味のある事に繋げられると、俺は思う。
命失われし時、残された立場が今後の為に出来る事は何だろうか。
比較し、不公平さを感じ、悔しく思った時、現実の自分に出来る事は何だろうか。
会いたい人に会えない時、故人をどう偲ぶだろうか。
例えすぐに自分の答えが出ないとしても、考える時間は無駄ではないと思っている。
何故って、何故かはよく解らないが、もう一度考えた時に、最初に考えた時よりも、考えがまとまりやすくなっている事が多いからだ。
この世の摂理や、真実なんて、俺には解らない。
だが少なくとも、先に進みたいのであれば、何かしないよりはマシだ。
辛い気持ちをどうにも出来ないまま、このままでいるよりはマシだ。
だから、もしかすれば小瓶主さんも、小瓶をここへ流したんじゃないのだろうか。
先程の「何が出来るか」に関して…
例えばだが、俺としては、「虐待される赤ちゃん」という状況がそもそもまずいので、それを防止、ないし、状況を知れる状態とはどういう立ち位置だろうかとも思うし、いざ子供を持つだとか、関わる事になるのであれば、そのような事をしないようにとか、自分も、もしかすれば虐待をするかもしれない危険性を心得て置くとか。
比較した時の境遇に関しては、人に迷惑をかけない範囲でストレス発散する(個人的に絵を描くとか歌を歌うとか、動物とか景色の動画や、音楽系のものを拝聴するとか。散歩するとか、など)事とか、比較している自分に気付けた時、その考えを止める事とかだろうか。
(他、止めるに相応しい自分なりの理由を考えて置く事で、何が困る事なのか解っていれば、止める以外にも取れる方法はあると思う)
会いたい人というか、故人の事だと思うのだが(解釈違いだったらすまない)、墓参りに行くとか、墓参りに行かないにしろ、何か、手を合わせて、心の中で語りかける…、つもりになるというか。
それで近況報告とか、挨拶でもすれば、通じる…かどうかは解らんが、俺はそうする。
参考になるかも解らん、この立場上、何を伝えようとも自己満足で、やったもん勝ちだと思いたくはないが、これこそ一方的なものなのかもしれん。
そう受け取られてもおかしくはないので、小瓶主さんに不快な思いをさせただけかもしれんという懸念はあるし、それだけに許されるとは思っていないが、今思い付く事は書いたつもりだ。
もしここまで、長い文章を読んで頂いたのならありがとう。
そしてごめんなさい。(盛大な勘違いだったら、それはそれですまない、なんか変な奴が来たなと笑ってやってくれたら幸いだ)