体に障害を持った人は通勤出来ない。
「能力はあるから、家にいたまま仕事できませんか?」
そう聞いたら
「オフィスワークだから出来ないです。」
痛い・・
不登校、あるいはさまざまな困難を持った子は登校出来ない。
「勉強する気持ちはあるから、家に居たまま授業できませんか?」
「学校に来ないなら、勉強出来ません」
痛い、痛い・・・
コロナが流行る前はどれだけ訴えても、見向きもされなかった小さな声。
それが全体に広がった今。
「通勤出来ないなら、家で仕事しましょう!」
「登校出来ないなら、遠隔で授業しましょう!」
すごいスピードで対応していく。
最初から出来たのに、やらなかっただけ。
なんで?
それは
「コロナウイルス」というもので
「痛みの共有」が出来たからだと思う。
その痛みは、小さな声の人たちがずっと持っていたもの。
共感されなくて、ずっと無視されていたもの。
例えばセクシャルマイノリティ。
「僕は生まれつきゲイなんだ。」
「私は生まれつきレズビアンなの。」
「変なの」
彼らが悪いわけじゃないのにね。
「私はコロナウイルスの感染者なの」
「変なの」
彼らが悪いわけじゃないのにね。
差別や偏見の痛みは、同じもの。
コロナのほうは
「移る、近寄らないで、気持ち悪い」
という、もっと痛いものだけどね。
この感染した方が、セクシャルマイノリティに偏見を持っている方だとして
コロナが収まった後に
「私は同じ痛みを当事者に与えていた」
と気付いた時、同じような事を繰り返すかな?
「コロナ」って人に大切な
「同じ痛みを共有する体験」という使命を帯びている気がするの。
コロナが収まった後には
みんな同じ痛みを持っていて
少しだけ優しい世界になってるんじゃないかな、なんて。