午前中、俺と二人暮らしの母は友人と電話で話していた、それ自体は良い。自分じゃ母を楽しませる様な会話は出来ないし、友人との時間を楽しんでくれるなら自分も自分のやるべき事や仕事に集中できる。けれど、それじゃ済まさないのは母のクズたる所以だった。電話が終わった直後、「私はもうご飯の用意しないわ」ホントに一切の間も無くそう宣言した。友人曰く「私位の年になって、家族のご飯の事を考えるのは確かにおかしい。自分で用意するべきだ」との事。
それ自体は間違ってはいないだろうし、そう言うのであれば自分で勝手に食べる。ただ、小さい頃から散々「家は家、よそはよそ」と言っておきながら、自分が得するのであればその前言を当たり前のように撤回する。働ける人総動員で働いて家の財政を支えるのが当たり前のこの時代でうつ病でろく働けず、財政的負担を全て押し付けている等、我が家特有の事情なんて一切考慮せず、考える間もなく即断でそれ言う辺り、母は友人の言葉に「(自分が楽できる事に)我が意を得たり!」と言う気持ちだったのだろう。きっと今後はこんな風にちょっとしたきっかけがあれば辛い事、疲れる事、全て俺に押し付け自分は一日通じてソファで寝そべりながら酒を飲んでグータラ過ごし、俺に全てを一任してるにも拘らず、「ドライブ連れてけ」「買い物連れてけ」とわがまま三昧をするのだろう。
母も含めて、人と接する度に「助け合い」「支え合い」と言う言葉がバカらしく、口にするのも気持ち悪く感じる様になっていく。口ではそう言いながら、結局は「負担の押し付け合い」「自分が得して楽できる」人と人との関係なんて、結局この2つが根底だ。この前提を元に考えれば凡そ全ての事に筋が通り納得が出来てしまった。ぶっちゃけ気づきたくもなかったし、知りたくもなかった事だ。凡そ他人が全て自分が楽する為に、こちらに不都合を押し付けようとする存在だと認識しているこの感覚はコミュニケーション力必須の今の社会では致命傷とも言えるだろう。
何が多様性だ、何が自分らしくだ。ホントにその言葉の通りなら、こんな社会不適合者に片足突っ込んでる様な精神状態になってしまった俺でも幸福とはいかずとも、せめて苦痛を感じない生活ができる様な国を作れよ・・・。前向きな言葉、ポジティブな思想、それがホントに口だけのきれいごとだと理解するのに合わせて、社会に合わせる事が出来なくなり、人生の詰みに一歩また一歩近づいていく、そろそろ本気で自殺を考えるべきなのかもしれないなぁ・・・・