希望と絶望は表裏一体で、どちらか一方だけを感じるということはないんじゃないかな、と思います
希望を持たないまま絶望できないし、絶望の存在を認識せず希望できない、というのが持論です
前者の例を挙げます
そもそも絶望とは希望が絶たれることであり、希望の存在を認めないまま絶望を認識すると、それはただの無になるのです
たとえば、居もしない人物のことを誰が気にするでしょうか
痛みを感じるのは、痛みを知らないことを覚えているときだけなのです
後者は、先の痛みの例になりますが、痛いことを知らないと、そう思わないと、痛くないことを認識出来ないでしょう
だからもし、あなたが絶望しているのなら、それは希望を知っているからなのです
あなたが絶望しないことを望むならば、希望という文字を自身の辞書から消すことをおすすめします
具体的には(これはわたしの実体験の話ですが)、「こうあったらいいな」と思うことを1つずつ潰していくのです
「美人だったら良かったのに」は、「美人は周りの目がめんどくさいし手入れだってそれなりにしなきゃならない、そもそも自分はモテたいわけでもないしいくら自分が綺麗でも3次元の顔に興味はないでしょう」
「所謂不細工だったら?」
「言うまでもなく周りの目が気になって勝手にしんどくなったりするでしょう」
「じゃあ普通の顔!」
「平均的な顔を手に入れたら見られるのは性格ですか?自分がそんな素敵な性格を持っていないことはよく知っているでしょう」
こうなると、どんな顔でもウワァーってなります
「顔面についての希望」を潰せました
他にも手当たり次第に「こうなりたい」と思ったことを潰していくと、結局何も残らなくなります
それで1回、希望の残り香によって深く深く絶望します、生きることに価値を感じないこと、最底辺で人間に向いていないこと
でもまあ、色々ことばにすると「ただ漠然とした不安」が襲ってくることはなくなります
そうしていくうちに、なんかもうどうでもいい、と思うのです
何がどう転んでも興味を示さずにいられるなら、悲嘆に暮れることはなくなります
わたしはこの状態を、希望とも絶望とも名付けようのない無だと感じています
無は楽です
周りの人間が何をどう思って言ってくるか知りませんが、一滴も水のない水面のようにさざなみすら立たないこころは、本当に楽で良いです、気に入っています
別に誰かに危害を加えるつもりはありませんが、自分本位で生きられます(他人の話もどうでもいいので)
誰かに迷惑をかけているならいつか刺されたり逮捕や投獄されたりするとは思っています
「だから何」、ですが
どうか皆々様、ご自身が好きな人生を