母親との別れからまだ100日程ですが
仕事が終わった時や
ふとした気が緩んだ時、母親との
思い出が湧き上がってきます。
もう、会えない
あるか彼方の砂漠の途方もない所に
向けて母親を探して歩いているような感覚です。
この、強烈な寂しさと悲しみから
何度も自分を言い聞かせて
色々と割り切って考えるようにしていますが
さざなみのように寂しさと尊さの深い悲しみの
波が周期的にやってきては
自分の言い聞かせてきた壁を乗り越えて壁が
壊れて母親の事を思い涙が溢れ出して止まらなくなります。
何故、先生はあんな意識のないせん妄の
母親を退院させてのか。。
あの先生の見立て違いがなければ
母親はまだ生きているんです。
これがどれだけ可哀想な事か。。自分の
命をくれてやるから
母親を戻してやって欲しいです。
自分ももう52
あと生きてもたかだか20年ほどでしょうが
この100日でこれですから
途方もなく長すぎます。
これが愛なのですね。
母親には照れ臭くて面と向かって
そういう話はしてきませんでしたが
母親は生前最後の辺りで
これだけお母さんと一緒におったら
お母さんが死んだら一樹は大泣きするぞ
と言ってくれて自分が死んだ後の事まで
自分の事を心配してくれていました。
母親も自分を心の底から愛してくれていたと
思います。
本当にどうしたらいいのでしょうか?
どこにも気持ちの逃げ場がなくて
やっとの思いで1日が終わっています。
163905通目の宛名のないメール
小瓶主の返事あり
お返事が届いています
一樹
(小瓶主)
ご返信ありがとうございます。
貴方も辛い事だったと
文面からよく伝わってきます。
私も、もうこの世に
お母さんがいないこの世に
生きる意味が見つけられません。
何かを食べたりしても
横で、うん
これは美味しいなぁって
一緒に感じていた
同じように
私の言う事を信じて
私の為に色々考えてくれた
いつも味方だった
大切なお母さん。涙
少し寒くなると
風呂場で服を脱いだら
寒いから
ニクロム線のあれを出してくれ
?
今時ニクロム線とか
いう人おらんでといったら
恥ずかしそうに笑っていた
一コマ
もう、山のように何コマも
あります。
どんなに無念だったか
悔しくて悲しくて
こんな事でお母さんと
お別れになった私は
そっと我が身朽ち果てるのを
待つだけです。
その同じ場になれた時
私も救われるのだと思っています。
この先どんな良いこと
悪い事があろうとも取るに足らない
些細なことです。
最初は確かに私が水を飲ませた事が
悪いと本気で追って死ぬ覚悟で
いろいろかって今でも部屋にありますが
よく良く考えると
そもそもそんな状態で退院させた
病院で長年お母さんをみてきた先生が
何であんな所で退院させたのか
そんな状態の病人を素人に
全く意識がないなら
その説明の一つもなしに
退院させたのか!
私がどうこう言うより
そこが全ての原因の発端だと思いました。
それは、後から先生との話し合いで
先生が私の見立て間違いでした
夕方には目を覚ますと思っていましたので
説明ができませんでしたと
謝罪されましたが
見立て違いというよりも
その退院時の患者の状態
患者が意識がないなら
迎えにきた私に
この状態での退院するにあたぅての
注意事項の説明をする義務が
あるのです。
見立てどうこう話しの筋から
先生は間違っていたんです。
その先生も普段は
良く患者の為に色々と説明するので
評判がいい先生でお母さんも
そんな先生を頼りに他の大きな病院に
行かずに私立の主治医の病院にいった
事が命運を分けたのだと思います。
この入院する時の母親のラインで
いつもの病院に行くか
大きな時々行っていた大きな専門の病院に行くか迷っているとありましたが
あそこで大きな病院を
選んでいたらあんなお粗末な
退院をする事もまた、病院も
させる事はなかった事と思います。
お母さんにも運が悪かった
いつもの先生も
私が思うにやはり
退院される時の説明が
不自然な感じでとにかく退院する事を
前提とした説明しかしておらず
非常に残念、あの先生も
わかっているはずです。
こうなってしまった以上
私は一生その先生は許せない。
自分があの世からいなくなるか
先生がいなくなってもお母さんは
戻ってこられない。
結果としてもう
なるようにしかならない
それしかないんだと思っています。
先生といえどもミスはあるでしょう
人間ですから、しかし
あのミスはありえない。
まだ2年もきていませんが
この先考えも変わることはないと思いますが
人は必ずいつかこの世からいなくなる事だけは決まっていますのでそれだけが救いです。
貴方も貴方なりに生き方を見つけて
強く生きて下さい。
どんな人であっても
貴方が一番理解した
愛の想いはその祖父にも届いているはずです。
僕ね、あれは25歳の頃に
借家住まいだった頃
近所の80歳くらいの
一回も話した事もない
おばあさんに私が洗車していると
まぁ、綺麗にされとるんですね
と声をかけられて
その頃若かった私は
あ、はい、とうなずくだけで
何もきのきくあいさつもできませんでした。
ある時
母親からそのおばあちゃんが
亡くなった事を聞いて
あの時もっとまともなあいさつも
できなかった自分を悔やみました。
高年齢でやっと声をかけてくれたのに
たいした言葉も返さずうなずいた
私をどう思った事か。
自分がその立場なら
どう思うかを思う時
赤の他人であっても良いと思う事は
だれがどう思っても助けてあげられる人に
なろうと思うようになり
その頃から母親の病気にも感心をもつようになりました。
喘息のくせにタバコは辞めずに
今の自分の年の頃から母親は喘息を患って
オマケに69歳までタバコをすって
喘息と肺気腫で何とか楽に
なれんかとバイオ製剤など
やってきましたので
母親も私からすれば
自分をもっと労わって
お母さんが50の頃から
何度も何度もタバコを吸って
病院いって薬をもらっても
治るかと喧嘩したものです。
当然治療費も入院費用もそれに
かけていた医療保険も私が払い続けました。
だから、今思えば
長生きをしたくて生きた生き方では
なかった、好きなことパチンコも
酸素療法になって自分で車の運転も
できなくなったら
YouTubeで中村珠緒のパチンコする動画をみてこれが楽しいんだといってみてました。
ですから、最後方でしたが
確かに母親の人生の時間はまだありましたが
息子の私からみて97%は生きたいように
生きれたのかと思ったら
確かにその事故は悔しいし
物凄く悲しくて辛い事ですが
もう、私の人生でこれ以上悲しい事も
ないし、あとは自分が好きなように
やればいずれその日がくる。
母親も私を生むまでの時間
私は存在していなかった訳ですので
その
タイムラグを待ってると思えば
それが自然の成り行きなのだろうと
思うようにしています。
話しがかなり脱線しましたが
それが私の今の想いです。
お返事ありがとうございました。
ななしさん
どうしようもできないと思います。今はただ、家で思い切り泣くことしかできないと思います。私自身の話になりますが、私は、自分が生まれた時から精神疾患を抱えた祖母と暮らしてきて、学生時代の全ての時間は祖母の介助をしながら過ごしてきました。ある日私の用意した食事で誤嚥性肺炎をおこし、救急車で運ばれましたが、後にそれは人災だったことが判明しました。一対一で食べさせる契約だったのに、それを破られたのです。そして、それは救急車の中での会話で知ったことでした。一対一で食べさせていたのなら、1人の職員が次から次へ交互に食べさせていたという言葉とジェスチャーが出てくるはずがないと指摘すると、そんなことは言っていないと言われ、生まれて初めて怒りで身体が震えました。悔しいけれど、病院も介護施設も、こちらにとってはたった1人の家族でも、あちらにとってはただ大勢の中の1人なのです。それを痛感しました。その後入退院を繰り返し、結果コロナで亡くなりました。最期の2ヶ月ほどはずっと寝たきりで、私が生活に関わる全ての介助をしました。あの時ちゃんと一対一で食べさせてくれていたら、もう少し生き延びることができたかもしれないと思うとやらせない気持ちになります。祖母は私が何をしてもお礼も言わない、会話もしない、笑顔さえも見せてはくれませんでした。ただ面倒なことばかり起こす祖母を時に嫌い、もはや早く死ねとさえ思ったこともあります。でも、最後の2ヶ月私は自分の持てる力の全てを使って祖母に尽くしました。そして、葬儀の時、葬儀の後泣いて泣いて、こんなに祖母のことを大切にしていたんだと気づきました。悲しみの深さは、その人への愛情とイコールだと聞きます。菩提寺となるご住職に倶会一処という言葉を教わりました。これは、またひとつの場所で会えるという意味だそうです。お葬式では、大往生だよ、とか、あなたに大切にされてお婆様は幸せね、などと言われたのですが、それらの言葉なんかよりずっと私に響きました。今でもこの文章を書きながら、涙が出ます。あなたの場合私より関係が近い人を亡くされた訳ですから、その悲しみは計り知れません。私は、私の場合ですが、時間しかないのだろうなと思っています。私も祖母が死んだすぐ後は、自分もこのまま連れてって欲しいと思ったこともありますが、多分向こうが望んでくれないと思います。私がどれほど祖母に尽くしたかを知るのは、死んだ祖母と生きている私しかいないので、そんな私が向こうに行ってしまっては、あなたを死なせるために私は生きていたわけじゃないし、死んだわけでもないと叱られる気がします。布団をかけずに寝ていたら、お尻を叩いて私を起こすような祖母でしたから、きっと言われます。あなたも幼少時代、お母様に叱られた思い出はありませんか?もしくは、クスッと笑える思い出など。時間が必ず人との思い出を美しいまま封印して、また会えた時にきっとその思い出を解き放てる時が来ます。私は、あなたの食事美味しくなかったわと言われたら、よく言うわ、あんなにモリモリ食べていたくせに。と言い返してやるつもりです。今どれくらいお母様が亡くなってから時間が経っているのか分かりませんが、今はとにかく思い出しては泣いて、温かい飲み物を飲んだり食べたりしながら、大切な人との楽しかった思い出を掘り起こしてみるのはいかがでしょうか。人が死ぬというのは、本当に恐ろしいことです。祖母の白い布の下の顔を見た時、ああ、もう別の人か別の何かなんだと思いました。こちらまで時が止まったように感じました。
夏川りみさんの涙そうそうは、森山良子さんが、亡くなったお兄様に向けて書かれた曲だそうです。本当に美しい歌です。大切な人を亡くして初めて、その曲の本当の良さに気づくこともあります。今はただ、苦しい。けれど、なんとか自分を癒し続けて、お母様の分まで生きてください。私も、叱られないように生きていこうと思います。年上の男性の方にいう言葉ではなかったかもしれません。小娘の戯言と受け取ってください。けれど、あなたもどうか生きてください。
以下はまだお返事がない小瓶です。
お返事をしていただけると小瓶主さんはとてもうれしいと思います。