以下引用ー
私が日ごろ接する大学生からも似たような話を聞いたことがある。昼休みに大学の食堂で一人なんて、まわりから友だちのいない人に見られそうで耐えられない、ケータイでだれかつかまえて絶対にいっしょに食べる、と。
これは必ずしも、一人でいる寂しさや孤独感に耐えられないということではない。まわりにピアグループ(同輩集団)のいない、たとえば自宅や街中であれば一人で食事をするのも平気だ、と言う。一人でいるのが怖いというよりむしろ、友人のいない/できない一人ぼっちと見られること、そのまなざしが怖いのだ。
言うまでもないことだが、どんな物事にも良い面と悪い面があるものだ。親しい関係を重視する価値観とそこから来る視線(のプレッシャー)、それ自体は一概に良いとも悪いとも言えない。重要なのは、こうした価値観や社会状況を否定するのではなく、むしろそれを前提としたうえで、好ましくない面のほうが大きくなることを防ぐ方策を考えることだろう。
そのためには何が考えられるか。まず思いつくのは、「みんなと仲よく」的な協調性ばかりを重視することをやめ、一人でいてもいいこと、一人でいられることの価値を、大人が子どもに伝え、教育していくことだろう。しかし、口先で言うだけでは、それが効果を発揮するとは思えない。一人ぼっちの孤独に耐えよと言い聞かせれば、耐えられるようになるほど、多くの人間は強くはあるまい。人間が一人でいることに耐えるには、何かしらの拠り所が必要だ。
このようなとき、ある集団・関係のなかでの孤独や孤立を耐える拠り所となり、力となるのは、自分を認めてくれる別の集団・関係があることだろう。それは、大人たちと入り交じった地域活動の場であるかもしれないし、お年寄りに対するボランティア活動の場であるかもしれない。同輩集団以外にも多様な関係を広くとり結ぶことのできるよう、学級や学校を開いていくこと。また学校だけの問題・責任に帰さずに、ひとりひとりの大人が、家庭が、社会が、そのような環境を整えていくこと。私たちの取り組むべき喫緊の課題は、そこにあるのではないか。
http://d-tsuji.com/paper/e06/index.htm
今の子らの言う「友達」ってのが正直よくわかんないだけど
(「知人」「仲間」で良いではないのってケースが多い様な)
大勢の中にありながら誰とも繋がっていない状態っての
あなただけではなくみんなが過剰に恐れてる様な
そんな気がします
友達が欲しいって言った時の「友達」が
友情を伴う物である必要もなく
・自分の居場所を担保する者
・コミュニケーションスキルの成果
・自分が「選ばれた」者であることの証人
であればいいのかなんか気持ちわりーな
気の合わない奴と気の合うふりとかめんどくせーじゃん
と個人的には思うわけですがまあそれはそれ
ボランティア?
いいじゃんやったれやったれ
友達が二人もいるんだ?
いいじゃん遊んだれ遊んだれ
なんて風に悩みに答える事もなく
無責任に思ったりしてますよはい