今日、とある勇気ある宛メを見ていたら、
急に、長年自分が抱えていることの一つを
誰かに話したくなりました。
言う場所がないので、宛メに流します。
さして面白い話ではありません。
何でもかんでも、名前をつけりゃいいってもんではありませんが、
伝わりやすく言えば、
私は、自己臭恐怖経由の、自己愛性人格障害に該当するかと思います。
(境界性人格障害もちょこっとあるかも)
名前を付けて、安住するつもりは皆無です!
オレは、治す!
高校の頃、陰湿さ満載の、徹底的ないじめを受けたのがきっかけです。
あれが、いじめだった、ということすら、
認められるようになったのは、最近です。
私は今と違い、当時「愉快で面白い、会話に長けた人」
と思い込んでいて
どこにでもすぐ溶け込めるのが、長所だと思っていたのと、
自分は世の中の表舞台を歩いていく人間だと思っていたので、
(これは、ヒドいですね~、バカすぎるというか)
余計、その手のひら返しの現実を受け入れられなかったのだと
思います。
当時、病院を回っても「あなたは健康体です」と
病名もつかず(当時は病名が欲しかった)、
他人に受け入れられない自分を、自分が全く受け入れることが出来ず、
立ち位置がない状態で、苦しい日々でした。
精神科、心療内科に行っても「被害妄想」という病名を頂くのみです。
病名の「被害妄想」については、以前宛メの誰かのお返事にも
書いたことはあるけど、
今思えば、その通りだと思います。
抑うつから、自殺願望が強い、死んだような
「青春期」でした。
自分を彩ることで、自分を隠すことばかりが、
生活の中心になっていました。
相変わらず、他人が自分をどう評価するか?そればかりで
私の生活は回っていました。
いました、というけど、完全なる過去形ではありません。
片鱗は、今でもしっかりあるけど、考えの方向性は
あの頃とは違います。
(しかし、時間はかなりロスしたと思う)
近年になって、多分、この状態は、ノイローゼの域なんだろうな、と
現実の中で、少しずつ、その偏りを外す生活をしていくうち
自分の姿が見えることが、多くなりました。
いつも言いますが、台風の目の中にいる人のなかには、
自分がまさか、そんなに面倒なことのど真ん中にいるとは
思わない人もいます。(私も)
あまりに、日常と繋がっていて、
その延長線にあるので、おかしいことまで、
日常の延長、普通の生活の範疇、と見てしまうのだろうな、と
・・これも、今だから、感じることです。
そういういじめがなかったとしても、
その後、そういう思考回路に陥りやすいのは、後に、
病前性格というものも、かなり関係していることも知りました。
自分が偏っていることと、
健康な心というものがこの世にあるとしたら
(健康な心=よいも悪いもあって、いち人間、の意味)
そこへ軸を持っていきたい、という思いだけは強く、
自分自身の洗い出しをしていく生活になりました。
この出来事がある前から、劣等感が強く(=自己評価が低すぎる)
育てられ方にちょっとミスがあった、
道徳の鵜呑み、環境、・・いろいろ、思い出すこともあり、
見つめていくようになりました。
私は、自分を庇護してくれる人間は必要だけど、
道具としてしか見ていない。
自分は、自分の脚で立てない、立つ力がない人間だと思い込んでいる。
(達成感の阻止、やる気の阻止を、幼少時受けていたのも一員)
治していきたいと思う過程で、母親にも徹底的に
言いたいことを言いました。(母子一体化気味なのです)
感謝の反面、辛いことも多かった。
私にも「言葉」や「私自身の考え」というものがある、ということを
傷つける、母に捨てられるであろう、という覚悟もして
言いました。
話し合ううち、母の思いと、私の受け取り方がすれ違っていた事柄も
幾つかあることも知りました。
(今では、お互いが、お互いの味方です)
いじめの原因になったことの「表面だけ」取り除いても、
劣等感の強い私は、次の自分のアラを探します。
そして、自分を責めます。
こんな人生は、まっぴらです。
だから、根から絶つ!・・のです。
ゼロにはならなくても、減らしたいです。
他人の言葉で、自分がひょろひょろと、すぐ吹っ飛んでしまうような
「自分の脚で立ってない状態の私」は
情けないし、
何のために生きているのかもわかんねーじゃねーか、です。
先日、帰省して、いろいろ、いろいろ、思うことはあり、
帰りのバスの中で、
「もし、再び、この街で暮らすとしたら、
相当、精神力がしっかりしていないと、流されていくな」と
直感で思いました。
他人は他人で「よろしくないぜ」な部分を、
今日も正しいと思って、持ち続ける人はいます。
だけど、それとは別に
「私は私でよろしくないぜ」な部分を持っています。
私は、他人の「よろしくないぜ」と感じる部分を
変えてくれ、変えてくれ~と言って、
もがいてましたが、
私が出来るのは、自分の「よろしくない」部分を減らすことだけです。
ダメもとでも、NO!は言わないといかんとは思ってますが。
自分の足りない部分と、感じてしまう部分を
他人に埋めてもらおうとすることを
少しずつ止めていく生活をしていると、この頃、まだ、数回ですが、
(自分の脚で立つ)
「あ、他人も、同じ時間軸で、今、生きているんだな~」と
自分の延長でない他人、自分とは、別人格の人が
この世にはいるんだな~と、いうことを
感じることがあります。
すみません、低レベルです・・
それくらい、共依存的な視野しかなかったのです。
でも、この物の見え方は、生まれて初めての視点なのです。
だって、他人が、他人として生きているんだよ~!
(絶対伝わらない気がする・・)
自己受容が出来ている人には、きっと
当たり前の風景なんだろうな。
だから私は、それに至る努力がある人を
純粋に尊敬してしまうのです・・。
散文ぎみなので、文はメチャクチャです。
ごめんなさい。
さて、仕事にもどるぞ!
まいたん
名前のない小瓶
23776通目の宛名のないメール
小瓶を1545人が拾った
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お返事が届いています
ななしさん
それはまるで宗教戦争の様なそんな感じですかね
相手を「理解不能な野蛮人」扱いしていては
一々疲れるだろうに
ななしさん
自分の足で立つ生き方をやろうとする時点で、もう自分の足で歩いて今をいきてんじゃんすか。
めちゃすごいと思います。自分は今現在地面に寝っ転がって、誰か起こして~な状態です。ずっと。なのですごいと思います。
自分もそんな風に生きたいです。
ななしさん
投稿者さんからお返事きたよ
投稿者です。
単なる吐き出し系の小瓶だったのですが、
お返事どうもありがとうございます。
私は、自分の個、が確立されていて、
初めて、他人の個が見えると思うので、
(元は精神科医の泉谷 閑示先生の受け売りですが)
ある意味、お互いが理解不能な野蛮人、でよいと思っています。
だからこそ、共通点を見つけて行く。
共通しない部分は、お互いにコミュニケーションをとりながら
知っていく、が、今の所の私の着地点です。
余談ですが、先生や他のカウンセラーさんが言ってた
着地点の風景って
(宛メにも少数ですが、その景色に到達した人がいます)
当たり前っちゃ当たり前ですが、
文字からイメージしていたものとは、かなり違います。
私は、まだ、共依存が強すぎるから
些細なことですぐ心を痛めてしまうとこがあり、
そういう自分にうんざりすることの方が、多いですが
平行して、その後の建て直しのスピードが
(理屈で自分を納得させる、ではなく、心が自然にそちらに向かうの意味)
牛歩ですが、前よりは早くなって来ているのも事実です。
だから、今は、この感じでやっていきます。
ではでは!
まいたん
ななしさん
まいたんさんって、自分のお気持ちを吐き出すことで、整理していらっしゃるのかしら(違ったらすいますぇん)
私もそんな感じなのですが、前よりは傷付かなくなりました。
相手の言葉に傷付くってことは、相手のことがそれだけ好きだった、ということなんですよね。頼っていた、ということなんですよね。
そんな相手からの言葉に傷付かなくなったのは、おそらく、自分で立てるようになった、ということなんです。頼らなくてもよくなった、ということです。
それって、大きな進歩だと思う今日この頃。
ななしさん
【小瓶主さんからお返事きたよ】
投稿者です。
はい、ご理解頂き、うれしいたけドコモだけです。
なので、違ったらすいますぇん、ちゃいまんがなです。
(お返事ありがとう!)
お返事をくれた「私さん」、すごいね・・
大いなる進歩。
きっと(憶測だけど)行ったり来たりも込みで、
小さい毎日の積み重ねで、今があるんだろうな。
そうだとしたら、純粋に尊敬です。拝むわ。
(違ってたらそれこそごめーんね!)
宛メでも、チラシの裏でも、書く前は、心の中はぐじゃぐじゃです。
だから書くのだが。
私は、書いてる中盤以降で「あー」って、訳が分かることが多いです。
もちろん、書いては見ても、吐き出したはいいけど
葛藤は残っているままの、宿題持ち越しってのも、普通にあります。
それでも、不思議なのは、気持ちを吐露するしないの差はかなりあります。肩の荷だけ軽くはなる。
(結果は出なくともこれも自分を受け入れる行為の
ひとつなんでしょうか?書きながら唐突に思ったが。どうなんだろ?)
私は、他人へのしがみつきが、自覚していたより相当重傷さんなのです。
見ないふりして、イヤイヤ、軽度でしょう~と長年扱っていたのですが、
なぜここまで・・というくらいの歪んだ人間です。
一昨日も、とある人のブログ経由で、
加藤諦三先生の本を上手に噛み砕いて説明してくれている
記事を読みました。
「加藤先生語」で言うところの
「ナルシスト」=「他人という現実がない人」の話ガッツリです。
泣きはしませんが、読んでいて、どんよりです。
一分の隙もないくらい、自分の闇まで込みで、言い当てられています。
(自己愛人格障害のことです。結局は)
私も、自分軸ではマシになってるところもあるので
今とは違うよ~と、いえるところもあるけれど、
身に覚えのあることではあるので、昨日の日記を読んでるようなもんです。
良くも悪くも、悪気はなくとも、迷路も込みで、
たどった道や、記憶は残るのはしょうがねぇ。
ただ、なるべくなら、生きているうちに、
多くのことが、昨日の日記になりますように。
今日も、小さい私を、年齢だけみるとオバハンの私が
あやしています。
子がおらんのに、やってることは完全に子育てでっせ。
なんじゃこりゃ!(キリがないので、返信は不要よ)
以下はまだお返事がない小瓶です。
お返事をしていただけると小瓶主さんはとてもうれしいと思います。