前に、こことは違うところで『死にたいと思わない人は日々どんな風に過ごしているのか?』みたいな質問をしたことがあって……
人によって受け取り方が違うのが面白かったなあ。と振り返ってみて思う。
ある人はその質問を素直に受け取って、「こういう感じで過ごしてるよ」的に書いてくれて。
ある人は「どうして死にたいと思ってるの?」など、どうしてそんなことを聞くのか興味があって逆質問してきたり。
ある人は「死にたいやつうざい」ってな感じで、自分の感情をぶつけてくることもあって。
ほんと、多種多様。
往々にして、純粋な疑問は曲解されておかしな回答が生み出されることがある。
純粋に、気になったから聞いたことが、相手にとっては嫌味を言われているように感じて怒って感情をぶつけてきたり、まるで否定されているように感じて怖くなって虚勢を張ったりと……そういうふうに分析したら人って面白いんだけれど、当事者はなんにも面白くないかもね。
ちょっとね……
「こういうこと言ったら、こういうこと言われて傷付いた〜」っていうような投稿たまに見かけるじゃん?
ぼくがさっき書いたみたいにさ、俯瞰してその出来事を冷静に分析したら何を苦しむことがあるんだろうな……と思うんだけれど、そんな上手くはいかないっすよね。
自分の心(存在)をその場から離す……って、そんな簡単にできるもんじゃないよなあ。あとたぶんこれ行き過ぎて本当に離れることになると解離による障害が問題に……
どうしたらみんなのこと楽にしてあげられるんだろう?
なんて考えるけど、ぼくの力の及ばない闇がそこにはあって、こうして頭を働かせるだけではどうしようもないとしたら、ぼくはいったいずっと何を考えているんだろうなと思う。
でもね、こうして言葉を紡ぎ続けることが、自分と皆を救うことになると信じて、それで頑張れたりするの。
『自分のため』と『誰かのため』両方あるから続けられてたりするの。
わたしたちって、死にたかったり消えたかったり、死にたくなかったり生きたかったりするじゃん?
ぼくらって、助けてほしかったり救ってほしかったり、楽になりたかったり幸せになりたかったりするじゃん?
誰かに、わかってもらいたい……とか。
いるよ。ここにさ。
誰にも助けてもらえずひとりぼっち死に逝く者も。
かと思えば
誰かに助けてもらっててひとりじゃなかった裏切り者も。
世界にはいるよ。いろんな人が。
多種多様。
私もそのなかのひとりだ。
言葉を届けて、助かりたかった。救いたかった。
役に立ちたかった。力になりたかった。
そう思って、できることを好きなようにやってるだけの人だ。
どんどんクソ野郎になっていくだけかもしれない。
まあそれでもいい。
他人より、わたしが大事だ。俺はこいつを救わないといけないから。
できることは少ない。だから、できることはやらせてあげたい。
「死にたい」を、紡がせ続けてあげたい。
死なないために。あるいは、死ぬために。
だめだ、このままいくと空が明るんできてしまう。
擬似的に死んできます(寝ます)。
また生き返ったら(起きたら)死にたくなるので、変わらず「死にたい」を紡ぎ続けるでしょう。
いつまでそうしていられるか……
いつまでも、そうしていられたらいいのにね。