中学生の頃、私は異常な程自己嫌悪に陥っていた。
それは、環境の変化のせいか、はたまた思春期特有のものか、周囲の人間関係であったか。それは曖昧だ。
しかし、私はとにかくこの世界から消えてしまいたかった。誰にも迷惑をかけず居なくなる方法を探していた。そんなものは無いに等しいが。
自傷行為をしていたのもその所以である。学校生活が上手く行かなかった私を罰するという定で行なっていた。
これは私個人の見解に過ぎないが、自己嫌悪も自傷行為も全て無駄な時間だった。それらの行為を否定しているわけではない。ある一つの意見として知るだけで良い。
傷だらけの腕が教師に見つかり、親に心労をかけた。そのせいか、親との接し方も分からず、まるで他人のように過ごし、食事を当たり前に受けとるなんとも傲慢な生活をしていた。
学校から帰ってくると、決まって消える方法を探していた。
以上を通して、何か利点はあったか振り返ってみると、何も見当たらない。私がこれらの行為から得たのは教訓である。何も得られない、この行為からは。この時間は無駄なんだと。
病んだ心を持っていると、どうしてもそのような行為に逃げたくなる。やめようと思ってもなかなか難しい。
だか、何故嫌いな自分を切るという行為や嫌いな自分に対して貴重な時間を使っているのだろう、そう私は思ったのだ。
また、私は惨めで愚かな人間であったが、命を無駄にするという行為はより私の愚かさを倍増させる気がした。
貴重な時間、価値のある命、これらを有意義に使って消えてやろう。ある日、そう決意した。
そして、狭い世界から多様な世界に触れる機会も私を変えた。一つの考え方に囚われてはいけない。道は一つではないんだ。
他人から言われたことに傷つくこともある、環境に押し潰されそうになることもこれからの人生で数えきれないほどあるだろう。しかし、他人や環境からの影響で心を病みたくないと思った。なぜ、左右されなければならない?
私の指針は自分を持つことである。何を言われようと屈しない心。少し見栄を張りすぎたが、言い換えると相手のために余計な心労を費やさないことだ。人に影響されない心。
そのためには、知識を得、よく学び、自分自身で思考することだ。
これからは過去の教訓を生かし、強く生きていこうと思う。
確かに中学生時代の行為は時間を無駄にした。しかし、その経験があったからこそ愚かな私は変われたのかもしれない。
長くなったが、これまでの人生を振り返って考えたことを書いてみた。このサイトは中学生時代に少し触れる機会があり、今懐かしさを感じている。
まだまだ未熟な考え方であり、稚拙な文章だったが、思っていることを少しでも表現できて満足している。