04551277。面と向かって、同情されるというか、憐れまれることが苦手な性分でして、少なくとも外面だけは整えておこうと日頃からあれこれ考えているのですが、同居人がここ二ヶ月留守にしていることもあり、ウェイトトレーニングをする為の機材を倉庫から引っ張り出して来ました。
久しぶりにやると、体の関節から何からギシギシいいますね。
自分でも引くほど体が衰えていたことに気付かされます。
気持ちがもやもやしている時は、ボロボロになるまでやります。そのかいあってか、みるみる内に体が蘇るようです。
より強く、頑強に、どんな物にも傷付けられないと思われる程、頑丈な見た目に戻りたいものです。心配されると、卑しく厭らしい気持ちが芽生えるのです。
ーーあなたに私を救うことなど出来ないのに。
優しい言葉は好きです。ただ、手の届く近さからのものは望みません。
仮にその手を差し伸べられたら、思い切り掴んでしまうはずです。引きずり下ろしそうな程に。けれども、そんなにも誰かに縋って生きる資格があるのか。
そうやってグルグル考えて心が淀むので、わざわざ私の目の前で同情されたくはないのです。
目を背けて、私の苦しみも痛みも無いものとして見て、或る日死んでいたら、初めから居なかったものにして欲しい。
同居人は、もう帰らないかもしれません。連絡は取れますし、居場所は分かっているのですが、こちらから会いに行くのは迷惑なはずです。
共同生活といえば、ゴッホとゴーギャンを思い出します。私達は以前、文章を生業として生きようと思ったことがあります。画業とは異なりますし、芸術と呼べるほど、高尚なモノでは無かったでしょうけど、ちょっとしたクラブを作っていた時期もありました。
けれども、彼は筆を折り、数年あちこちを渡り歩いた後、地元に帰って来ました。そんな時に、私から同居の話を持ちかけたのです。
単純に、落伍者同士でも寄り合えば、多少はマシになると思っただけのことでした。彼が何を思ったのかは分かりませんが、ただ、私は私でしか無かったのです。
では、耳を切り落としたり、拳銃自殺でもするかと言われれば、そんなこともありません。
愛されることを望む前に、愛することをしなさいと昔の人も仰っています。
何も無いから求める、ということは自然な考えかもしれませんが、しかし、何も持たないのに、求めることが本当に出来るのか。
私には、同情にも救いにも、善意によって与えられる言葉や行いに、報いられるだけのモノが無いのです。
そうした後ろめたさによって、自分の弱さを隠しているのか……。
舌がネジ曲がっているのは、劣等感からか。