死にたいという文字を見る度に色々な感情がわいてくる。
勝手に死ねって思ったり
わかる自分も死にたいって思ったり
死んでほしくないって思ったり
どうせこいつ死なねえって思ったり
本人の死にたいという気持ちと、それを見たり聞いたりした人間が感じる死にたいに対する見え方はきっと違うんだろうな。
友好的に感じる相手なら助けたい、死んでほしくないと思うし何かしてあげたい気持ちが働く。
嫌悪感や敵意を感じる相手なら死ねば良い、いやもっと苦しめって思う。
つくづく人間って自分勝手だな。
死にたい気持ちを理解してほしいのに、
理解したつもりになられるのは嫌だ。
でも好意や仲間意識を感じる相手なら例え正しく理解されずとも、理解しようとしてくれたり心配してくれる気持ちだけでも気が楽になることもある。
やっぱり自分勝手で理不尽だ。
Aという人物の発した死にたい気持ちが、たまたまAの気持ちを理解できる誰かに届いて、たまたまその誰かがAを気にかけて声をかけたり励ましたりして、それがたまたまAの死にたいを救える琴線に触れなければならない。
誰かがAを救えても、Aがその誰かを同じように救えるとは限らない。
あぁ俺は今死にたいな。
死にたい理由はたくさんある。
解決できる気もしない。
楽になりたいな。
ずっと眠っていたい。
この気持ちは辛いな。
同じ人がいたら死ねることを祈る。
死ではなく生の中で解放されるならばそちらを祈る。
この気持ちが誰かに届くことは限りなくゼロに近いのだろう。
それでも誰かに届くことを心のどこかで期待してしまうんだろう。
『死にたい』
ななしさん
はじめまして、手紙一本分のあなた
手紙一本分の僕だけど、よろしくね
僕にはあなたが、辛い、死にたい、でもなんとかなるなら生きていたいって呟くように書いてるように見えた
たまたまこの瓶を読んだのがあなたを救えない僕のような人で良かったのかは分からないけど、何となく、ほっておいたらいけない気がしたから返事を書いています
あなたの感じている死にたい気持ちを僕が本当に理解することはないんだろうけど、僕の中にある生きていたくないっていう気持ちをあなたは理解することは無いだろうから、そこはお互い様として少しだけ拙い僕の言葉に付き合って欲しい
いきなり我儘なやつだって?そこもお互い様だろう?
人は死に取りつかれると中々それを引き剥がすこと難しい生き物だ
自で死を願う場合も、誰かの死を願う場合も、死から誰かを救い出したい場合も、平等に死に対して思うこと辞めるのは難しい
何故かって人にとって死は絶対的な罰であり、逃れたいものであり、救いであり、逃れられないものだから
今生きている僕達にとって、死は絶対的な強者で、それは今後も弱体化することも揺るぐことも無い
恐怖であり、希望であり、終着点であり、絶望であり、救いである、それが死といものだ
それを踏まえた上であえて言うなら、あなたはまだ死の先に行くことを望むべきでは無い
何故かって?
死が今のあなたにとって救いになるようには僕には見えなかった
あなたは、お前に何がわかるんだと言うかもしれない、ふざけんなと怒るかもしれない
でもね、あなたにとって死が穏やかな終わりに見えていない間は、まだ生きて出来ることもしたいこともあるってことだから
人は、苦しいから、悲しいから、辛いから死にたいと望むけど、そういったネガティブな気持ちで死を望む時は、その大半が自己罰的な気持ちが多く含まれているように思う
死んで楽になりたい、は、生きている自分を最大限罰したいと同じ意味だからね
そうやって望んで手に入れた死は救いになると思うかい?
僕はそうは思わない
死とは本来、生の延長線上にあって、通過点だ
つまり、時間が流れたり、日が昇ったり、水や風が流れたりするのとおなじ、自然に訪れるものだ
風が木々を揺らすように、当たり前で穏やかな通過点なんだよ
なのに、死を生きている自分への罰の形に変えてしまっている時点で、まだ死ぬべきでは無いし、罰と感じている時点で生きている間にその原因は解決しなければ、死という通過点を通ったところで、楽にはなれない
楽になれないなら死は救いではないだろう?
だから最初の方に書いたけど、あなたはまだ死の先を望むべきでは無いんだ
とても長々と書いてしまったから、これで終わりにするけど、最後にひとつだけ
僕はあなたが書いた死にたいと書いた文章に惹かれた
すごく惹かれて、引き込まれて今回はたまたま読めたけどまた読みたいと心から思ったんだ
と言ってもサイトの特性上、たまたま巡り会うしかあなたの文章に出会う機会が僕には無い
あなたが生きて、何度も手紙を出してくれないと僕には読む機会が無いからね
だからとても自分勝手に我儘に、あなたの気持ちも理解せずに書くね
『生きてくれ』