※フィクションです
ある牛丼屋に、一人の男が入ってきました。
店員が近付くと、男はろくに店員を見ずに『ギュードンオーモリ』と言葉を発しました。
店員は注文内容を復唱して、少々お待ちくださいと告げてその場を去りました。
しばらくすると店員は大盛り牛丼を持ってその男の席に向かいました。すると男はムッとした顔で『これは何だ? すぐにどけろ』と言い出しました。
店員は、注文した大盛り牛丼を持ってきたのですがと言いましたが、それに対して男は
『俺は外があまりに暑かったから、涼みたくて座っているだけだ』
『座っているときに、ふとギュードンオーモリと言いたくなって言ってみただけで、注文する意思はなかった』
『そっちがろくに確認せずに持ってきたのが悪い。復唱なんて聞いてない』
と反論しました。
さすがの店員も、でも牛丼屋でメニューの名前を言うのは普通は注文したいから言ってるって事じゃないのですか? と言い返すと、男は
『普通って何だよ? そんなモノは誰が決めた。俺が注文するつもりがあったか無かったかだけが重要だろ? 少なくとも俺は普通とやらに従うつもりもないし、従う義務も無い。いいからそれをどけろ!』
と叫びました。
作り話はここまでですが、この普通って何というメッセージは、最近至る所で見るものです。しかも、このメッセージは大抵『普通を疑いもしない普通の人たち』を一段下に置いて、普通と呼ばれるモノの異常さに気付いている自分はすごいんだぞというニュアンスを込めて発されている場面が多いと思います。
しかし、私たちの生活も、考えも、ありとあらゆるものが様々な『普通』に支えられています。全ての普通に対して『普通って何?』と言いだしたら、デカルトでも手に負えない事態になるのではないでしょうか?
ここまで読んで下さった方の中には、
「普通って何? という言葉は日本社会で生きづらさを感じている人達が発した言葉であるからこそ価値があって、こんな牛丼屋のクレーマーがたまたま同じ単語を発したからと言って同列に扱えるものじゃないだろ。それくらい『普通なら』分かるだろ?」
と思われるかもしれませんね。実際その通りだと思います。
ただ、この反論も『普通』に支えられているのではないでしょうか?