コロナ禍を機に廃れつつある飲み会カルチャーだけど、先日、前職の「卒業生」たちの飲み会に誘われ、参加してみた。
参加者の一人が酔っぱらって、「周りと同じでなくちゃ病」という話を持ち出した。
「まわりと同じでなくちゃならないから学歴といい会社を追い求め、
まわりと同じでなくちゃならないから適齢期に結婚して出産した親が、
生まれた子どもにも『まわりと同じでなくちゃ』と強要した結果、
子どもが病んでまわりと同じではない子になり、
親を地獄の苦しみに追いやる。
皮肉なもんですよね。
人生のすべてを、まわりと同じであり続けることに捧げてきた人間が、
ほかならぬわが子がまわりと違う存在になり、
付き合い方が全く分からない上に、養う責務を放棄することも許されない。
虐待扱いになりますからね。
ほんと皮肉な展開ですよね~」
何の話かと思ったら、彼がその「まわりと同じであることを強要されて病んだ子ども」当人なのだそうだ。
「僕の中高時代の友だちにも似たようなタイプがいたんですけど、
成人すると結局、親と同じようにまわりと同じでなくちゃ病が再発して、
同じこと繰り返すんです。
不治の病の一種なんですかね?
自分の代で、この不毛な連鎖を断ち切ると決めて実行できる意志のある人は、ごくごく少数派。
だけどね、最近の少子化は、この少数派の影響も少なからずあるのではと思うんですよ」
まあ、そうかもね。
現実的にいって、「まわりと同じである」ことを、子どもに全く要求せずに育てられるかと言えば、そうもいかないだろう。
だって、結局、ある程度はまわりと同じでなければ、そのまわりとともに生きる以外に選択肢がない地球での暮らしで、
子ども本人が苦しむことになるから。
このジレンマにどう対処するかについては正解がない上に、
対応を誤ったときのダメージは、人の一生を左右するほど大きい。
リスクマネジメントに長けた人たちは、「最初からこのジレンマに巻き込まれずに済む」選択をする。
今の上司は、自分の身の丈を超える案件に手を出す癖がある。
挑戦することが尊いという価値観に染め上げられ、勇気と蛮勇の区別がつかないタイプ。
部下の我々には、この上司を制御する力はない。
上司が後先考えずに手を出した案件で、案の定、トラブル山積みになり、その尻ぬぐいをさせられる。
もはや、本業が何か分からなくなるレベルのトラブルシューティングのオンパレード。
一方、隣の部署はと言えば、上司が冷静で、引き受ければ部下に苦労をかけると分かっている案件には手を出さない。
毎日毎晩、ドタバタしている我々を尻目に、隣の部署の社員たちは終日落ち着いて本業をこなし、定時に優雅に帰宅していく。
自分の身の丈を踏まえて、関わるべき仕事と避けるべき仕事を的確に見定められることは、大人の要件の一つではないかと思う。
上述の「正解のないジレンマ」に適切に対処する能力、要求レベルは相当高い。
「そんな能力は自分にはありません」
と、冷静な判断ができる人が増えてきたのだろう。
更に言えば、社会の仕組みの問題がある。
人育てを重視する国では、「国ー個人」という仕組みがある一方、日本では、「国ー家族ー個人」という図式。
解消困難なジレンマに対処する第一責任者は「家族」とされ、国は他人事としてほっかむりできる社会。
「家族」がその難しいジレンマに血反吐吐きながら取り組み、立派に人育てを完了した場合、そのリターンは「国」が吸い上げ、「家族」に100%還元されるわけではない。
それなら、本来は、人育ての渦中での苦労も、「家族」と「国」で相当な按配で分かち合うのが筋。
日本ではこの仕組みが成立していない。
その点も含めて勘案すれば、
・もともと対処が極めて困難なジレンマであり、
・責任の所在が不当に家族に偏っており、
・必要なレベルのサポートが得られない
ことが予め分かっているのだから、
「最初から手を出さない」
が最適解と見做されても無理はない。
これもまた、少なからず少子化に影響しているんだろうな。
アルコールに強すぎて、飲み会で一度も酔っぱらったことがない。
折角の飲み会なのに、また考え事で終わってしまった。
飲み会参加中の頭の中にまで、出てくるなよ、上司。
どんだけ存在感あるんだ。
ちなみに、今、自分の部署が発狂しそうなまでに激務なのは、
「育児ノイローゼで長期休職中のお父さん社員」(お母さんではない)
が2人いることも大きい。
やっぱり転職するしかない。