突然ですが、問題です。
ここに一隻のオンボロな船があります。
名前を「大漁丸」と言います。
修理しないとこのオンボロ船は使い物になりません。
幸いなことに設計図はあるようです。設計図のとおりに修理すれば、この船は治るでしょう。
さて、このオンボロ船の腐った木の板や柱の一本一本を丁寧に交換していきます。修理した船はもはや新品と見間違えるほどです。職人さんはいい腕をしていますね。
しかしここでふと職人さんは思ったのでした。
この新しくなった「大漁丸」は果たして、以前のオンボロな「大漁丸」と等しく同じ船なのだろうか、と。板も柱もすべて以前の「大漁丸」のものではありません。しかし設計図どおりに修理したので、"名前"はそのままで一緒です。
つまり問題とは、船の構造自体は設計図と同一なのですが、その船の構成要素が違うと、まったく異なる別の船になってしまうのでしょうか、ということです。
この問題をもっと簡単に翻訳することもできます。
たとえば目の前に美味しそうな黄色の「ミカン」が一つあります。この「ミカン」という言葉は、今の目の前のこのミカンを意味しています。しかし妖精さんがちょっとイタズラして、ミカンの時間を早送りしてしまいました。ミカンの時間は周囲の流れからどんどん進んでいって、あっという間に腐ってしまい、グジュグジュになり、かたちが崩れていって最後には跡形もなく自然界に帰っていきました。
でも「ミカン」という言葉はそのまま。そして対象としてのミカンはどこかに消えていきました。あなたが「ミカン」と言葉を発するや否や、妖精さんのイタズラでミカンはなくなります。
「ミカン」という名前はそのままなのに、ミカンの構成要素は変化していきます。「ミカン」という記号で意味していたものとは、一体全体、何だったのでしょうか。
これは船の問題と似ていますね?
名前や構造などの記号は同一なのに、その構成要素が変化していくと、言葉と対象との間に不思議が起こります。この不思議って何だろう。どうしておかしなことが発生してるように見えるのだろうか。
何故、問題が発生するのか?を考えたとき、二つの問題には共通点があると思います。
……私が(勝手に独断と偏見で)解釈するに、言葉には"時間がない"のです。時間の変化を度外視して、意味が成り立つように記号は作られています。
オンボロの船の構成要素が変化したり、ミカンが腐敗していく様子とか、それらを完全に記述する連続的な変化のある言葉は、日常の言葉にはないみたいです。
もちろん"時制"はありますよ。言葉には過去動詞とか現在進行形の記号はあります。でもそのような形式で意味できることは限られています。だから船やミカンのような不思議な問題が存在するのですね。
記号には連続的な時間変化を追い続ける能力がない。にも関わらず記号の意味する対象には時間の変化が常に存在します。
『万物は流転する』
その名言のとおりに、現実の世界は常に変化し続けていて、一つも同じ瞬間というものはありません。この世界にあるもの一つとっても、時間の変化があるところでしか、存在は存在できないのです。
しかし私たちの使う日常生活の言葉は、まるで記号の意味が固定化されていて、あたかも永遠不変で一つの実体のある対象を指し示しているように、感じられる。ですが船やミカンの問題のように、記号と対象とは必ずしも一つに対応してはいないのです。
その解釈によれば、言葉というものはとてもヴァーチャルなものです。リアルの世界とは異なり、まるで言葉は記号の意味が不変であるかのように装う。そして私たちの思考をヴァーチャルに支配しているのですから。私たちの思考と本物のリアルな世界とは、まったくの別次元です。
ここいらで、まとめます。
言葉は永遠不変の固定化された実体ではないようです。リアルな世界は常に変化しています。私たちが実体として認識しているものは、思考のなかにしか存在しないのではないのか?とも思われます。言葉と思考の空間とリアルな世界との不一致が、船やミカンの問題という錯覚を生み出す……。
その錯覚があるから、私たち言葉を扱う人間存在は、特有の苦しみや悩みを抱えている。ヴァーチャルな一つの記号によって、その記号が実体であると思いこんで、あれやこれや……「昨日は嫌味を言われたな」とか「仕事に行くのが億劫だ」とか、心のなかで思い悩む。
しかしヴァーチャルとリアルの境界を、無垢で純粋な瞳でじっと見つめるとき、そのとき人間存在は悩みや苦しみから"少しは"自由になれる(気がする)。
これってもしかして『色即是空 空即是色』?
はて悟り(?)の気分って、こんなものなのかしら?
そんなことを今日はつらつらメモりました。
完全に頭でっかちで理屈まみれですが、ここらへんに人間の悩みを解決する糸口がある、かも。自信はないですが。ま、理論と実践とは往々にして、別次元ですしね。
ではでは。