見られたいのではない。
理解しようとしてほしいだけだ。
でも他人を理解しようとする人には
一度も会ったことがない。
納得したい人ばかり。
私は誰の視界にも映っていない。
人の視界に映っているのは、
分解され、抜き取られ、都合よく繋ぎ合わされた私の死体。
理解と納得の違いは、
答えを求める場所の違いではないか。
理解は文字通り、理を解すること。
他人が立脚しているルールを知ること。
だから答えは自分の外にある。
納得は外にあるものを、
自分にわかるように簡略化すること。
わからない箇所は切り捨てられ、
わかる箇所は線で結ばれ、
元とは似ても似つかない形にされる。
初めから持っていた答えに合うように、
外界は切り刻まれる。
誰とも話が通じない。
誰にも理解してもらえない。
それはいい。
でも、勝手に私の像を作って、
独り歩きさせるというのは、
最早怪談の域だろう。
私について誰かが語るとき、
その像が私とは完全に別物であるということによって、
ここにいる私は世界から消されるのだ。
誰も私を見ていない。
見ようとすらしていない。
どこかが摩耗していく。
そもそも目をまだ使える人が、
もう人間には一人も残っていないのではないか。