何か失敗をして落ち込んでいるとき。
親しい人に慰めてもらえるかと思いきや、
「あなたがそんなに使えない人間とは思わなかった」
「もっと根性あると思ってた」
「失望した」
「今忙しいから後にして」
「失敗ってどういうこと?まさか収入が減るんじゃないでしょうね」
「私の方がずっと辛いんだから」
「悲劇のヒロイン気取り、ウザいからやめて」
…なんて、追い打ちかける系の返しが来ることが、十分あり得るのが人間関係。
いや…今、欲しいのは慰めだけ。
しかも、ドンピシャでハズレのない優秀な慰め限定で確保したい。
そんな場合、答えは一つ。
相談相手は人間ではない方がいい。
最近、某所で、
「配偶者よりも、カウンセラーよりも、ChatGPTの方がよっぽど優秀な相談相手」
というコメントを目にした。
うん。知ってた。
小学生の時から知ってた。
でも、私の子ども時代には、ChatGPTはなかった。
だから、本が相談役だった。
写経よろしく、本を抜粋しまくったノート数十冊。
どの辛さのときは、何冊目のどのページを読めばいいか分かっている。
頻繁に読み直すものは、諳んじている。
古今東西の膨大な数の作家さんの書いたものを読んだから、知っている。
「私の悩みの大半は
過去に生きたほかの誰かが
ちゃんと悩んでくれたこと」
だと。
そして、その悩みや解決策を適切に言語化する才能を持った先達が大勢いた。
彼らはそれを、本として後世に遺してくれた。
それによって、彼らは時空を超えて、現代に生きる私の慰め役を引き受けてくれている。
優秀で、決して裏切らず。
他言せず。
「悩みをきいてやった」
と貸しを作ったつもりにならず。
「悩みを共有してもらった」
とパトロン面もせず。
粘着せず。
上からモノを言うこともなく。
相談の態で自分語りもせず。
本当に必要なことを必要な分だけ答えてくれる。
そして、何よりも、
「私より先に逝かない」
あと腐れがない完璧な慰め役。
例えば、誠意を尽くしたのに徒労に終わった時。
思い出すのは、下村湖人の「次郎物語」にある「板木の音」という一節。
「愛情に対してはつけあがり、怒りに対しては簡単に膝を屈する卑しい根性」
に関する話がある。
(ほんっと、そうなんですよ、朝倉先生!でも、自分もそうならないように気をつけますね)
などと胸の内で呟いて、この問題をどうにか消化する。
制作で行き詰っているとき。
思い出すのは、「バランシン伝」に出てくる稀代の名振付家ジョージ・バランシンの言葉。
「創造するのは神の仕事。人間にできることは、組み立てることだけだよ」
(そっか。それなら、いろいろな組み立て方を試してみればいいんだ)
と閃いて、これがブレイクスルーになることがよくある。
自分の悩みに自分が気づいていない場合でさえ、彼らは慰めてくれる。
なんとなくノートを読み返しているときに、さっと光が差し込む。
その時に初めて、自分が知らない間に薄暗い雲に覆われていたことに気付いたりする。
という具合に、私は何十年もの間、外の生身の人間よりも、内なるミイラたちと、より多くの会話をしてきた。
そして悲しいかな、世の中には、批判しないと死ぬマンの専門家という方々がいて、
「本が友達というのは不健康ですねぇ。
現実の人間との付き合いからしか学べないことがありますから~」
などと、ひとが編み出したサバイバルツールを真っ向から否定してくる。
この手の専門家の方々については、失笑するしかない。
そういうことを仰るなら、私が聞きたい言葉を一つでいいから、あなたが言ってみたらどう?
念のために言っておきますが、私が今、どんな言葉を聞きたいのか。
それを説明はしませんよ。
どうしてって、自分でも分からないのだから。
言ってもらって初めて、それが聞きたかったと分かる。
慰めというのは、そういうものだ。
そして、本の作者たちは、私が何も説明しなくても、常に最適な慰め方をしてくれる。
それを「不健康」と否定するなら、あなたが彼らを上回る健康なやり方で、ひとを慰めてみたらどう?
それが出来ないなら、黙っていてください。
少なくとも、私に関する限り、それがあなたにできる最善です。
的外れで小賢しい専門家先生の戯言にむったり。
また仕切り直さないと、と思っていると、猫がやってきた。
お花を口にくわえて、軽い足取りで、しっぽピーンで。
私の足元にちょこんとお花を置いて、まん丸な目で私を見上げて、
「にゃー」
「……」
ああ。
慰めるってこういうことだよ…。
あるいは。
気分転換を兼ねて、高齢になったかつての恩師を施設に訪ねたところ、
「わざわざ来てくれたの!こんな嬉しいことないよ!」
と、心から喜んでくれたり。
あるいは。
帰路立ち寄った喫茶店で。
シルバーカーが邪魔でお店のドアを開けるのに四苦八苦しているお年寄りに手を貸したとき、
「ああ、ありがとう。あなた親切ねぇ」
と安堵の声で言われたり。
抱えていた辛さと無関係の場面で
私の辛さについて何も知らず
慰めようなんて思ってもいないであろう相手から
こんな風に、ぽんと慰めがもたらされることがある。
慈悲の存在を信じていいと思えるのは、こういう時だ。
こんな風に、慰め係は、そこいらへんに
案外ちょこちょこ居てくれるものである。
そして、あなたもまた
慰めたつもりではない言葉や振る舞いで
他の誰も慰めることができなかった誰かを
通りすがりに慰めていることだろう。
※次郎物語は「青空文庫」で読むことができます。
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