あなたにとって「生きる」とは?
これには十人十色の答えがあると思う、というかあって欲しい。いろいろな人の「生きる」があってこその地球だと思うから。私は人が「生きる」を個々に抱えていることこそが、「生きる」なんだと思う。
私の人生の路線には気の遠くなるほどの数の人の人生の路線が被っている。親や友人は勿論、前を通り過ぎたあなたの路線でさえ私と被っている。あなたがそこを歩いた空間を私は過ごした。それだけであなたは私の空間を形作るひとつのものなのだ。私の「生きる」の一瞬を作り出したパーツなのだ。同時に、私は貴方の「生きる」のパーツの一欠片でもある。
人の「生きる」を見つめながら人生を送りたい。これによって私の「生きる」が見つけられる気がしている。いや、これこそが私の「生きる」なのかもしれない。
「生きる」。
とても不思議な事だらけだ。勝手に心臓は動き、血は流れ、目はものを捉えて、脳は考える。
しかしそれらが機能しているだけで「生きる」と呼べるのだろうか?
私は違うと思う。機能しているだけならば、そこらの洗濯機や車や自動販売機だってしているのだ。勿論、物が生きている、という言い方もするが、それは人の思いがあるがゆえの言い方である気がする。
「生きる」とは機能の働きに被さるように存在している、数値化出来ない領域の何かがあることを指すのではないだろうか。機能あってこその生だ、しかしそれ以上の何かがなくてはならない。それこそが「生きる」を指すのだと思う。
こんな事を考えるのは無意味だと思う人もいるだろう。それはそれで構わない。それさえも貴方の「生きる」の1ピースだ。けれども私は初めからそこにあった機能や、与えられた知識以上のものを考えたい。そこに様々なものが集結する私の「生きる」を考えたいのだ。
長い戯言に付き合ってくれた貴方の「生きる」が素敵なものになりますように。
有難うございました。