「殺してほしい」と思っていた時期がある。
いま背後から走ってきているトラックが急にこの歩道に乗り上げてこないかな、とか。
「誰でもよかった」というタイプの通り魔が今私の目の前に現れてくれないかな、とか。
もういっそ「お前なんか要らない」と首を絞めてくれないかな、とか。
でもその時期は短かった。
「自分が死にたいからって、他人に罪をなすりつけて自分は望み通りこの世から退散するのかよ、お前性格悪いな。死ぬときまで他人頼りとかありえねーよクソ野郎」
自問自答の中で、自分自身にそう言われたので。
まぁ、自分にはこの答えでよかった。
でもSNSのつぶやきや、ここに流される小瓶で同じ言葉を聞いたとき、とてもそうは言える気がしない。
なぜかと言えば、自問自答の中で出たその答えは、自分をより傷つけるための、より貶めるための、より侮蔑するための、より嫌うための言葉にすぎなかったから。
自分を嫌いになり尽くしたら、いつか自分の手で死ねるはずなので。
自分を甘やかそうとする自分をぼろぼろに痛めつけて、やることなすこと言うこと思うことすべてを否定して、それで安心感を得るド変態の馬鹿。
そんな自分に宛てた言葉を、死んで欲しくない人間に浴びせることなどできるはずがない。
自分に向ける言葉は何も気にしないのに、他人には日常会話でさえどんな言葉を投げていいかわからなくなる。
自分との会話の世界に閉じこもりすぎたんだろうか。
閉じこもった世界の中で自分が使っている言葉は、強くて、鋭くて、痛くて、硬くて、汚くて、きっと外の世界では何一つ使えないんだろう。
「無口だね」と少し困ったように笑う初対面の人に愛想笑いを返して、「すみません」と言おうとした口からは空気しか漏れないで、閉じこもった世界の自分が自分を罵倒する。
この口はいつ空気以外を吐き出せるだろうか。