存在給という言葉の意味を
わたしは、わかっていなかったみたい。
それは、相手のくれた愛あるおはなを
わたしが、心から受け取る、ということを
一切出来ずに来たから。
感情を、きちんと感じるということが
どうしたらできるのだろう?と
辛い日々だった。
誰かに、否定されたり、排除の言葉や態度をもらうとき
わたしの中にも、同じものがある。
自分をおとしめる気持ちを持っている。
誰かが、何かを思うことで、わたしは、自分に気づくきっかけはもらうけど
だからって、一緒になって、自分をおとしめるのは
ちょっと違う。
ああ、おとしめているなぁって『認めた上で』
やっぱ、やめたい。
あまりに、この一連に幾度も出会うことがあるのだとしたら
わたし自身が、歪んだ価値観と、その根っこにある
セルフイメージの洗い出しが必要なのだと思う。
ボランティアに行ったのに、お礼をせがむひとがいて
おまえはなにしに来てんだ?という小瓶があった。
(わたしのは小瓶の意図とずれすぎた
お返事になるので、
そちらには書いていません)
お手伝いなんだから、寄り添う目的、
または、自力で出来るようになるための補助だろ、って
少し前までなら、言ってた。
他者依存がひどいひとなら、
「ありがとう」って言われないと、納得出来ない!なんてひともいるかもね。
いまのいまのわたしなら、
その場所にいることで「自分が、生きている」ということを
再認識させられる(相手を通じて)
そういう気づきのある、場所ではないかと思う。
わたしは、とても人を裁く。
誰かのせいに、は好きじゃないけど、どうしても
まっしろい赤ちゃん時点で、こうなったわけではないので
ルーツがどうしてもあり
両親ともども、人を裁く人達だった。
それは、それくらい、各々、自分自身のことが嫌いで、
低く、軽く見ていて、
それは、自身より、「社会通念上、正しいと言われること」を
最優先してきたから。
それに、ただ、しがみついて、振り落とされまいと
追いつけない自分を、ダメなやつだと思い込んで
「どうせ」自分なんて・・になってしまったのだと思う。
思う、っていうか、母親に以前、この話したら
「ビンゴ」です、との回答。
(たまたまですが)
でも、ルーツにむけて、固執していても
家の中で中年になっても、両親に
金属バット振るう人と同じ不毛さしか見受けられないので
わたしは、それはもう、どうでもいいので
自分が次、どうすんのか?
どう生きるのか?
性格的に、青写真をたてて、それに向かって邁進することは
自分に枠を作ってしまう行為の為
水があわないのでそれはしないのですが、
内側で、信じていたいものはある。
『わたしはどの場所でも咲ける人』
「わたしは、雑草食ってでも生きていける人』
『わたしは、復活力のある、
おきあがりこぼしのような力のある人』
生命力の強さ、たくましさが、もろさの反対側に
必ずあるということを
ボロボロのときこそ、思い出せたらいい。
散文ぱらぱら、あめあられ。