ただ疑問に思う。
礼儀とは一体なんだろうか。
礼儀とはこういうものだとマニュアルのようにしてしまえば、中身のない、上っ面なだけの礼儀が完成する事もある。
それは困ると、今度は中身を教えようと、そうして中身の事に重きを置けば、見えない中身を盾にした、暴力的な礼儀が良しとされ、よくわからない上下関係のようなものまで広まってしまう事もある。
礼儀とは対人関係において、気配りや敬意、慎みの気持ちに基づく行動の規範であるらしい。
敬意のある礼儀もある。
なれば敬意とはなんだろうか。
敬う気持ちとは?尊敬とは?
尊いとは、極めて価値の高い事。非常に貴重である事らしい。
崇高で近寄りがたい。神聖である。高貴である。
高徳である。ありがたい。
おそらく殆どは価値の高い事、ありがたい事、というものだろう。
しかし、それは強制されるものではなく、自ずと考えに至る事ではないか。誰かが考え至り、良いものとして広めたのではないか。
形だけ、というのは、やらないよりはいい。けれど、中身がある方がもっといい。
人間関係や社会秩序を維持する為に守る作法。それは解る。形から入る場合だってある事も解る。
それでも形の中だけにいると、むず痒い気持ちになるものだ。
敬意ある礼儀とは、言われて尽くすものだろうか。
敬意を持てる人に対してする作法だろう。
満遍なく、全ての人が気品高くあると思うのはなかなか私には難しい。
いや、そう書くと語弊があるな。
一人一人違いがあり、それが普通であり、更に特別である事は解るつもりだ。一人一人がそれ故に貴重である事も。
しかし、敬意を持てない相手に礼儀を尽くせと言われ、その人に心から敬意のある礼儀を尽くす事が出来るのだろうか。
礼儀とはなんだ。
言葉が清く思える事か?
礼儀とはなんだ。
態度がよく思える事か?
礼儀とはなんだ。
相手に否定などの意見をしない事か?
礼儀とはなんだ。
相手のご機嫌を伺って言葉を発する事か?
礼儀とはなんだ。
深く関わらない事か?
それは違うのではないか。
大事な場合があるとしても、場合によってはかすりもしないのではないか。
きっと一人一人思う所があるし、思う礼儀の形もある。
どのように誠実でいたいか。どのように義を通したいか。どのように思いやりを持ち、他と向き合いたいのか。
それが礼に繋がるのではないのか?それがあってこその礼儀ではないのか?
社会の秩序や文化的背景などにより、共通して解るもの、解りやすいものはあった方が良いのだろう。
しかし、まずその姿勢を取ろうとする事から礼儀が始まるものではないのか?
礼が解らぬ。
礼の義が、道理や意義が、解らぬ。
礼節が解らぬ。
上下を気にする前に、互いが心根に礼を持って接せねば、礼は通じぬのではないか?
ないよりはマシかもしれぬが、形だけでは芯にあらず、臨機応変な対応に叶う礼儀など取れぬのではないか?
人間関係を守るからといって、ご機嫌を伺い続け、当たり障りのない事を言うのは自身への尊敬に欠けるのではないか?
そうなる時はあるだろう。致し方ない時もあるかもしれぬ。
だが、それは果たして、礼儀に対して、礼儀を持てていると言えるのだろうか。
礼儀を非常に貴重な、極めて価値のある事と思えているのだろうか。
規範、模範となる姿はどこにあるのであろうか。
礼儀とはなんだ。
自分に問い続ける。
ただ礼儀を知りたいが為に。
それが今出来る礼節だと考えて。
47382通目の宛名のないメール
お返事が届いています
烏羽
(小瓶主)
ベルさん、お返事ありがとうございます。
例によって例に漏れず思った事や考えた事を気ままに書くので、ある程度推敲はしてるのですが読む際はご注意下さい。
敵意のない気持ちを示すことですか。なるほど…
礼儀は作法として、思いやりをわかりやすく、伝わりやすく表現するものでもあるのかと思っていましたが、もともと敵意のない気持ちを示す事も考えられ、含まれているかもしれませんね。
親しくなれば、少しムッとくるような冗談も結果的にはお互いの笑いに変えられる事もあるかと思いますし。
そもそも敵意を抱く人という全体像も、この人のどの部分が嫌だと感じた末の結果的なものだと思うので、紐解くとその人に敵意を抱いてる訳でもない気がするんですよね。何かを解決しようとする中での優先度の問題というか。
…というか、今気付いたんですが、配慮という枠なら、敵意がない事を示す事は思いやりに含まれるとも言えるんじゃないでしょうか。
含んでいる事に気付いて礼儀に関する事を書けていなかった自分が言える事でもないかもしれませんが(苦笑)
そういえば、夏だったか公園にスズメバチが居て、すぐ近くで俺の動向を伺ってたのかもしれません(または蜂なりのこれ以上近付いたら刺すぞ的なサイン的な、一種の礼儀とも言えなくないもののため?)が、ホバリングしてたんですね。
巣のテリトリーに入ったのかもしれないと思い、まあそりゃ刺されたら怖いのですが、内心ビクビクしながらゆっくり背を向けて去ったら大丈夫だったので、偶然かもしれませんが、一定の生物的にも敵意(害意?)のあるなしは大事な側面があるかもしれないと思いました。
…かと言ってナメられたりして、自由に行動されたりで、蜂で言えば熊が来て巣が壊されるとか物理的に舐め取られて死に関わる害が及ぶとまた困るのですがね。(食うか食われるかだから刺す事もある)
流石に人間と虫や動物は違いますが、人間も文明を得てしても、野生で生きてきたような根はそこまで変わってないんじゃないかとか思ったりします。
それも礼儀に関わりがあるかもしれないと考えてみたり。
烏羽
(小瓶主)
あー、まりちゃんさん、すみません。
ふと思えばの下りは、俺が自分の内側、過去の事柄に対して思う事、です。「俺の場合」を文頭に持ってこないと意味が散らばりますね。
それ故、言外の意味のようなものがにおう文になってしまったのだと思いますが、特に何も考えてなかったので、誤解を生む表現になったのだと思います。
俺を鑑みた場合、自分に対して誠実を求める、という事は、みたいな。
された訳でもした訳でも、というのは、対他人の事ですね。もし過去にされていたとしても、されていたと感じた事は…多少しかありませんね。
それは少なくとも、現実のみで感じた話です。
宛メで感じる事は、これと言ってないです。(ここがなかったからややこしい表現だったと思ってる)
言葉を見て、自分が思った事(言葉通り)しか書いてないので、考えを書き連ねた感想文…というかダベりですかね。
言葉に込める価値観の違いはわかるので、それ込みで書いてるつもりです。
そうですね。
宛メでは自分の為にあえて、言葉の価値観の擦り合わせをせずにやろうとしてきた面もあるので、聞く事の基本に立ち返って考えてみても良いかもしれないと思いました。
ベル
僕にとって礼儀とは敵意のない気持ちを示すこと。
だから相手に敵意を抱いていながらも、それを押し隠した行為は、節度ある行為をした場合であっても礼儀に反すると思ってる。
僕にとって礼儀とは言葉遣いや行為そのものじゃない。
敵意がないことを示そうとする気持ちがあれば、それは自ずと言動に現れる。
その気持ちが礼儀に繋がるものだと考えてる。
相手を思いやる気持ちや敬う気持ちは、その先にあるものだね。
相手を思いやる気持ちがあれば、相手に敵意を抱かせないよう気遣うことができる。
その結果、お互いに敵意のない関係性が出来上がる。
そして、そこに相手を敬う気持ちが積み上がって行く。
だから、敵意のない気持ちを相手に示すことが礼儀の出発点。
そう考えてる。
まりちゃん
はいほそく〜〜
誠実はですねー
わたしのは、自分から見た自分が、のみです!
〜ねばべきではないよ。
なので、誠実を、他人に求めてはないですねー
(そういう面が、多分に在るならすてきなことだけど
所詮人間は、多面体なのだから
誠実な面がある人はいても、誠実な人、というのは居ないと思う)
あとねー、単語にいちいち引っかかるようだけど
(めんどくさいんで、誠実に関してのみ言えば)
表現しようがないから「単語、熟語という、比較的伝わり易いと言われる確率の高い言葉」というものが
流通してると思ってます。
擦り合わせをしてない場合は、
ひとつの言葉にも、あまりにも、違いすぎる価値観を
投影していることも在るので
話がまるで、噛み合わないこともあるから
そういう時は、
お互いの言い分を、聞いてみるとよいかもしれませんね。
そんな理由で、わたしは
その単語をチョイスしただけであって
だいじなのは、
何を思って、その言葉を言ったのか?の
「何を思って、感じて」のほうだと
私は思うんで。
はいおわり〜〜
またねーー*
烏羽
(小瓶主)
お返事どうもまりちゃんさん。
基本的に自分の思った事を思った順に書くので、読みにくかったらすみません。
ふと思えば誠実さを求めてはいますが、誠実さを求めるというのも、された訳でもしようとした訳でもありませんけれど、礼儀における心意気を強要する事に近いものを感じますね。
言ってみれば誠実さを自分が求めたいから求めるという事であって、「誠実さを求めるために私利私欲を交える」みたいな変な言葉になるんですが、俺の場合で考えると多分、自分の為であり、自分の行為ながら人に関わる事の形成and練成なので、時には人の為になる可能性がある?的な?
まあ、それは考えても、だからなんだって事はないので置いときましょう。
誠実さというのも、概念に後から言葉をつけて共通的に解りやすくしたものだと思いますし、そこから考えると自分が「こうしたい」と思った事がベース(多分心の声)な訳で、真に誠実な行動が出来ていたのかどうかは、自分だけではまず解らないんですよね。
だから、思いやり等、理屈としては傲る事ができないというか、どんな行動も、どこまで行っても出発点で。
故に謙虚でいる事が大事な状況に直面する事ばかりだと思うんですが…
生き物は理屈だけで生きてませんからね。(それを良しとする訳でもないが、自他共に)
解釈にもよると言えますが、慣れる事はあっても同じものに慣れるなんて事は、本来的に、様々な事においてあり得ない筈なんですよね。
(同じように感じる、感じたものであって、実際起こった事は時間もケースやらもどの条件としても同じものではない、みたいなそういう意味でもビギナーを感じる)
マナーだのなんだのに窮屈さを感じた為に、真夜中に夜露死苦やる事もあると思いますが(ノリでやる人も多分居たりする)、生き物として生きる上で、先の見通しや合理さを求めるなら、とても大事な窮屈さ(逆に言えば、何していいかのわからなさ)だと思います。
(夜露死苦やってる中で目を逸らしたとしても、実は誠実さや謙虚から遠ざかる事はないので、哺乳類の原点としての縦社会を結局は本能的に学ぶ事になったりする。夜露とは違うけど、ばれたらその都度嘘ばっかり吐くような万引き常習犯とかでも、自分から目を逸らすのが悪い意味で上手くなっただけだと思う)
結局アレですかね。
言葉にしろ礼儀にしろ、その人の思いが所々滲み出ているものなのかもしれません。
真心がこもればいい意味で滲み、真心の逆としての私利私欲がこもれば、悪い意味でそれも滲む。
その滲みが周りに伝わるからこそ、人は集積するものなのかもしれないと思いました。
善行と悪行が積み重ねれば積み重なる程に。
…となると、いやあ〜、因果ですわ。(仏)
まあ、出来れば善行を積みたい、相手を思いやって(真には出来ないが、それでも自分本位でなく)相手の立場から考えようとしてみる、自分なりに寄り添おうとしてみる、という真心からの心意気が、自分にとっても周りにとっても合理的かと思いますね。
多分仏語の因果はそういう感じの考え方から来ているんじゃないかとも思いましたんで。キリストも似たような考え方がある気がしますけど。
まりちゃん
自問自答中、課題小瓶ぽかったので
一行お返事にとどめました。
烏羽さんのおへんじ、電車内で読んだんですが
自分なら、なんだろうかなぁ?と
考えながら読み進めました。
誠実、という二文字が、やたら、読んでいて頭をよぎりました。
わたしは、どうでもいいことは、まーテキトーでも
いっかと、思うほうですが
とても大事なことに関しては
こころの声だなぁ・・
誰かの思惑や、損得を除外した状態の、アレです。
不思議なことに(わたしサンプルなので少ないけど)
そういう会話の時は
相手の人も、同じ響き方をしているらしく
その人の誠実、で、言葉が返ってくることが多いです。
なんてな!
というのは、ほんの少しの会話でも
それ、端々でわかるからな。
そういう目が、現時点で覚醒している人か
どうかって。
そうでないひとは、取り繕っていても
途中から、こぼれていくから。
わからない、ということが、ある無い、とも違う。
わからなくても、知りたい、その世界を見てみたいという
思いがある人は、
わたしは、似たこころざしの人ではないかと
勝手に思っています。
ある意味、人間は死ぬまでビギナーな面を
持ち続けているからこそ
人間だとも思うので。
(フォーエバー煩悩)
烏羽
(小瓶主)
読んで下さったり、お返事ありがとうございます。参考にさせて頂きたいですね。
順不同となりますが、気になった事を纏めて返信してみたいと思います。
何故礼儀が気になるか。
過去に親だの学校だのでなんやかんやあったのもありますね。
ただ、それはそれとして、礼儀とはなんなのかを改めて知り、義とは何かと考えたかったのです。
それに出来るだけ義に対して誠実でありたくて。そうでありたいというか、ある程度理想(目標?)を持ってしっかりしたいというか。
あー、特に何があったとかではないのです。
その点、正直失礼に当たるかもと思いはしますが、嫌いな人に反抗的な態度を取る事に対して、臭いものに蓋をするように礼儀を使う的なものはやはり違和感を感じてしまいます。
なんででしょうかね、嫌いな人に対して反抗的とかは気を付けていてもなりますが、好きな人に対して背筋が伸びるとか言葉遣いが綺麗になるとか、それこそ意識しない限り多分ないんですよね。基本的に何時も猫背ですし。
よく見せようという気持ちや関係を壊したくないというのはわからないでもないのですが…礼儀を、自分をよく見せようとする為に使うという考えがあまり思い浮かばなかったのかもしれません。
うーん。
なんか、自分をよく見せるために使う事に抵抗がある気もします。
(それはさておき)
仕事等でならわからなくもないですが、それでも公だからと言って、客でも仲間でも相手から私情を持ち込まれて嫌な事をされたら、恐らくそのままとは行かないでしょう。
不快に思うかもしれない事を避ける事や耐える事のみならず、事が起こってしまった自他その後の対応の仕方も礼儀となるのではないかと思うのです。
端的に言えば、人が嫌がる事をし続ける、それを放っておくのはどうなのか、という感じでしょうか。
その人の問題ではありますが、この場合(被者が言えないのであれば)誰かが叱ったりして止めるのも礼儀とは言えませんかね。
秩序を正そうとするのもまた礼儀ではないかという。
仰る通り、嫌いでも礼を尽くそうという心があるなら礼儀正しいのだと思えます。
礼を尽くそうという心意気があるのであれば、それは上っ面ではない礼儀だと考えてますね。(礼儀を弁えずに、心意気があるんだぞ等、言ったもん勝ちとか思っていなければ)
それと、社交辞令というか、なんとはなしに言うというか、嘘を潤滑剤にするのもわかります。
けれど、自分としてはやはり、いい関係で居たいが故に使うのは気が引けますかね。
勿論いい事もあるとは思いますし、場合にもよるんでしょうが、何とも思ってないのに口にするのと、思った事を口にするのは、重みが違うと思うんです。…思いだけに。
無論、思った事の全てを口に出せる訳でもないのですが。
社交辞令を言われて、おっ、といい気分になる事もあれば、言われて変な気分になる事もありますし、本当に良いと思って口走っても相手に悪い思いをさせる事もあるでしょうが、礼儀はそこでも出てくるものではないでしょうか。(そうならないのが良いとはいえ)
根本には心持ちというか気にする姿勢というか、思いやりや気遣いなどの気配り等、人として守った方がいい道義あってこそ、関係を良くしたり保ったり、自他や社会を守る事ができる礼儀となるのではないかと思いました。
名前のない小瓶
相手を敬う、年上を尊重する
年齢の上下でなく、学歴であったり、職歴であったり、
自分が下手にでるとき敬語を使う
お客様へのありがとうございました
店員さんへのありがとうございました
初対面の人へは敬語
まあ使わない人もいるけれど。
でもそう考えると、
馴れ馴れしいとか、そういったものを避ける場合も使っているのかな?
私は日本の美しい素敵な文化だと思います
確かにご機嫌を伺うことだったり、人の顔色に囚われて本当の自分を出せないといったことがあります。お世辞であったり、というか社交辞令。そういうことで、嘘はつきます。お綺麗ですね、おめでとうございます、素敵です、私もそう思いますとか。
でもそれは、その人とよい関係でありたいという本当の思いから出た嘘です。てことはつまり…
そう、よって私は、
礼儀とは、その人とよい関係でこれから付き合っていきたい、
という大切な、相手との人間関係への一歩だと思います。
ななしさん
好きな人に好意を伝える&嫌いな人との関係の悪化を最低限に抑える為のものだと思います。
好きな人には、意識しなくても背筋が伸びて、丁寧な言葉遣いになるでしょう。
相手に敬意を表したくて、また自分自身のことを好ましく思ってもらいたくて、自然とそうなるはずです。
嫌いな人には、(例え年上や上司でも)少し油断すれば、あからさまに反抗的な態度をとってしまうでしょう。
その嫌いな気持ちを覆い隠す為、私的な感情で公の関係性を崩すことが無いようにする為に、好きな人に対する態度と同じような姿勢や言葉を見せるのです。
そのテンプレが礼儀というもの。
確かに、込められた気持ちは違います。
上っ面だけの、形だけの礼儀が本当の礼儀と呼べるのかという罪悪感めいた疑問もわかります。
でも、どんな理由であれ、相手に「礼を尽くそう」という心意気のもとに行動した時点で、その行動は充分に礼儀正しいといえるんじゃないでしょうか。
あなたには、壊したくない、壊してはいけない関係はありませんか?
好き・嫌いだけで世の中を渡れたら楽でしょうが、多くの人はそうもいきません。大物芸能人のような共演NGはなかなか出せない。
だからこそ、自分自身と、相手を、社会的に守る為に礼儀があるのだと思います。
冬
鳥羽さん
何故礼儀がこんなにも気になられるのですか?
なんかそこに答えがありそーな気がして。
ななしさん
礼儀かあ。
私自身を相手に確りしてるように見せるために使うもの。
私が相手に「尊敬してるよ」「信頼してるよ」「感謝してるよ」と伝えるために使うもの。
私が相手と距離をとるために使うもの(敬語の使用+若干硬めな表情)。
私にとっては、こんな感じかなー。
上下関係や年齢とかは関係ないかな。
以下はまだお返事がない小瓶です。
お返事をしていただけると小瓶主さんはとてもうれしいと思います。