最近になってようやくわかってきた。
幼少期の親のOD、泣きわめきながら死にたいとか叫ぶ親をなだめていた、今となっては忘れもしないと思うけれど、最近まで全く思い出すこともなかった。
思い出さなかったのか、思い出せなかったのか、よくわからない。大学でようやく親と離れることができたから、こうやって冷静に思い返せるのかもしれない。
よく考えてみれば、そういう過去があったと意識していたら、あんな家庭では生きてこれなかったと思う。家出なんて年ではないけれど、威厳もへったくれもない「親」を人並みに尊敬するなんてできる訳がない。
年の随分離れた兄弟が、この家庭に生まれてよかったと平気な顔で言う。あいつは問題行動を起こしていたかもしれないけれど、自分自身の人生を生きていたといえるのかもしれない。押し殺していた私よりも、幾分立派な奴だと思う。
本当はあいつのようにいきたかったのかもしれない。でも親は曲がりなりにも家族であるはずの兄弟を当然のように悪役に仕立て上げてあんなにはなるなと言った。泣きわめく時にはああなったのは自分のせいだというくせに勝手なものだ。
多分、親のせいでああなったというのは正しい。行動を否定することはあっても、その人格を否定してはいけない、という簡単なことさえ私の親はわかっていない。多分今でもわかっていない。本人は「叱って」いるつもりなのだろうが、「怒って」いるだけだ。何か一つだめなら、全部だめだと決めつけて、怒りをぶつける大義名分を探しているだけなんじゃないかと最近気づいた。
昔を振り返ってもどうにかなるわけではないし、何か変わるわけでもないのだろう。どうしようもないことだし、今更親とどうこうしようなんて思わない。今更変わるわけがないし、こんなこと言ったって拒否するに決まっている。
それでも考えずにはいられない。子供連れの親子がうらやましくて仕方ない。ああいう風に育てられたかった。テレビでやっている野生動物の親子を見るのも、なんだか複雑な気持ちになる。人間が動物に母性を求めるなんて、異常なんだろうけれどそう思わずにはいられない。
親の役割を放棄するなら、いっそのこと動物のように放り出してどこか行ってしまうとか、致命的な行動をとってくれれば今さらになってこんなに悩むことはなかったのかもしれない。