考えていることを散りばめる備忘録(オンライン)
ストレスへの耐久性は、本人の生まれ持った性質だけでなく
例えばストレス発散できる趣味があるか、相談できる相手がいるか、愚痴をこぼす場所があるかなどにもよる気がする
生きていくうえで付き物といえる大きな苦しみに耐えるには、
自身の生の延長線上に執着するものがあるかどうかにもよる気がする
それが、例えば復讐などであっても
*
傷付いたり苦しむことを繰り返すほど、それを不毛なことと認識し、感情を失っていこうとする
それは、他人目には大人になったと見えるのかもしれないが、人間としてはとても恐ろしい変化だ
大人になってもなお、ドラマを見て泣いたり、何かに喜んだり、あるいは傷付いたり、趣味に没頭して楽しそうにしている人を見かけると、少しホッとする
この人はまだ感情を捨ててはいないのだと
働くロボットにはなっていないのだと
*
あるSNSで、何かしらの障害(発達障害だったか?)をもつ人が投稿した台詞が忘れられない
自分は消費財だと言っていた
一体どれだけ、自己肯定感を剥ぎ取られればそんな台詞が出てくるのだろう
名前のない小瓶
47909通目の宛名のないメール
お返事が届いています
名前のない小瓶
努力が実らないこともあるのはそのとおりだよね
でも努力しないと実るものも実らない
死にたいとか小瓶主様が挙げてる消費財って単語も自分なりに努力して、それでも努力が実らないから疲れて書き込んでるんだと思う
死にたいと吐いてすっきりすればいいけどしない人もいるってかここにはそんな人のほうが多い
趣味やすがる物(人)があれば違うんだろうね
けど、そんなものがない・気力がない人がここに来るんだと思うよ
ここだって返事がくるかどうか分からない、掲載されるのも数日かかる
待つぐらいならTwitterの鍵垢かなにかで一人呟いてたほうがいいもの
すがるものがないから皆ここにくるんじゃないかな
ななしさん
小瓶主ならば、何に執着なさるのですか。
ななしさん
(小瓶主)
>>烏羽 さん
恐らくお返事の内容を完全に汲みきれていないので、一部分だけに対する返信となりますが、改めてお返事に返信させていただきます。
5通目の方に関してもそうですが、
恐らく、何かを無意味と思うか、あるいは何ひとつ無意味ではないと思うかという点について、価値観が私と完全に異なっているのだと思います。
私個人としては、傷付いたり苦しむことによって誰かの痛みや苦しみが分かるようになるというのは、(苦痛の大きさにもよりますが、多くの場合)価値は無いものと考えています。
何故なら、その苦痛によるマイナスの影響力が、『苦痛によって誰かの痛みや苦しみが分かるようになることの(自分にとっての)価値』とは比べ物にならないほど大きいからです。
誰かの痛みや苦しみが分かるようになることについても、痛みを邪魔だと思考できるということについても、痛みを感じたり苦しんだことや、痛みや苦しみのためにやるべきことができなくなったことと引き換えで得たのなら、『そんな些細なものはいらないから、痛みや苦しみをなくして欲しい』と考えます。
それに加えて、一回だけならばともかく、似たような経験によって傷付いたり苦しむことが繰り返されるならば、そこから学べること(転んだら痛いということ、悪口を言われたら傷付くということ、など)は既知のものとなり、価値はなくなっていくと思います。
(転ぶこともそうですが、似たようなことで何度も苦痛を受ける例は色々あるかと思います。経験するかどうかは人によりますが)
これらの理由から、傷付いたり苦しむことを繰り返すと次第に痛みを感じない方が良いと考えるようになり、感覚が鈍磨していくのだと思っています。
また、将来的にその経験が役に立つかもしれないというのも、あくまで『かもしれない』というだけで根拠がない場合、私なら少なくとも役に立つ兆しが出てくるまでは、価値が無いと認識すると思います。
逆に、その経験によって(前の返信の例えで言うなら、防災や小石に気をつけることで)次を防げるならば、その意義は大きいと思っているので、私なら余程でない限り不毛な苦痛ではないと捉えると思います。
人によって、そして苦痛の大きさによっては、それでも不毛、無意味な経験だと認識するかもしれませんが。
私の場合、傷付いたり苦しんだことに対して得たものの価値が(自分にとって)小さすぎるものだったとき、その経験は実りがあったと肯定的に捉えられるものではなく、『経験しない方が良かったもの』、『経験してしまったことを到底肯定できないもの』、つまり不毛なものと認識します。
そのような価値観に基づいて書いたのが、この備忘録です。
また、『無駄なことなど1つもない、というのは嘘である』と他の方への返信で書きましたが、これは『すべては無駄なことである』ではなく、『無駄なこともあり得る』という意味です。
この点は把握していらっしゃるかと思いますが、念のため補足させていただきます。
お返事の中にあるように、誰にでも当てはまる訳ではないというのを前提に、気休めの意味で(それに加えて、誰かに当たったらなお良しという意味で)使うなら良いと思います。
私の場合、先に書いた価値観に基づいて正確ではないと考えている、というだけですので。
最後となりましたが、この話題についてここまで価値観が異なるものであるというのを知ることが出来たというのは、私にとっても良いことでした。
(烏羽さんのお返事に関して、こちらに伝えたかったことを全て読み取れている訳ではないと思いますが、少なくとも不愉快になるようなものではなかったかと思います)
こちらこそ、有り難うございました。
烏羽
ご返答有難うございます。
いえ、自分も人の事をとやかく言える立場にない上、こちらこそ身の程を弁えない言葉遣いのの返事となってしまい、重ねて失礼致しました。
自分も一応気を付けてはいますが主語が抜ける事はザラにありますし…
とにかく、時間でのすれ違いに関しては運営さんにもどうしようもないと思いますし、仕方がないので気にしてません。
返事をするしない的な件は、時間や読めるか読めないか、時の運のような要素もあると思うので、あまりどうこう考えず好きにするのが一番いいのではと思っています。
ぶっちゃけそこらへんに関しても特に気にしていないので、お気になさらず。
個人的なスタンスとしては、運のような要素の中でしたい時に書いてみているので、もし主さんがお目にかかる上で、気が向いたり、よろしければ、その時はまた。
ななしさん
(小瓶主)
>>烏羽 さん
申し訳ありません。折り悪く、時間差で入れ違っていた模様です。
私が前に出した返信は、5通目の方へ向けたものでした。
ちょっと横着して宛て先を書かなかったのがまずかったですね…
いただいたお返事に関しては、一度通して拝見しましたが、また何かあれば返信させていただくかもしれません。
(もちろん、それに対するお返事は無くとも構いません。
キリがなくなってしまうと思うので)
取り急ぎご連絡です。
烏羽
えーと、時間的なすれ違いもあるだろうし、俺の返事も含めて7通目の返信してくれたのかはわかんないけど補足みたいな奴。
読んだかどうかもわかってないのに、読んだ前提みたいに書いてる部分もあって、その上くどく感じる事もあるかと思いますので、予めすみません。
そしてまたもや長文失礼します。
小瓶主さんが書いている通り、優先順位「的」には意味が薄くなって行くのであって、他の意味はあるんじゃないのって事ね。
で、不毛かどうかの認識が変わる可能性もあるし、それを置いても、そもそも意味作りというか意味付けというのかは、無意識にもやってるみたいだから、機構のようなものとして得た時点なりその過程なりで邪魔に思おうがなんだろうが、脳か神経か細胞なんかかは知らんがどこかで必ずそれを受けて、その上でそれごと使う(対処{→撤去or有効活用orエトセトラ})可能性のある構造をしてるんじゃないかと、俺が思ってるからなのね。
もちろん、人なり生き物なり、生物などなどとして脳だったり神経細胞だったり、細胞の1つ1つに含まれるものやその動かし方は違うと思ってる。
でも、人間は人間の事しか、それも少ししかわからないものかと思うんよ。(他の生き物とかものとかも、外から見てわかるものはあるだろうけど、所詮人間の立場からの物言いであって、当事者でないので確実にわかるとは、俺には言えない。因みに人間と人間も似てはいるけど、それに関しては同じだと思ってる)
そう言えるかもしれない。言えないかもしれない。
結局可能性の話なんだし、一概に語る事はどんな言葉を持ってしても、本質的に難しいだろうね。
まあ、だからと言ってどの価値観に属さない事も本質的に難しいと思うんだけどさ。
(可能性ばかりの話だと、それでいいならいいけど、悪い意味で末広がりになって、収集つかないっしょ)
あ、価値観→考えやら行動やら感じた全ての経験からなる脳の使い方(立ち位置?視点?尺度?)みたいなニュアンスね。
主さんの言っている事は多分わかるけど、捉え方は置いといて、考えとして、細かいニュアンスなどにはどうしても違いが出る。
ただその上で、全く同じものを想定している訳ではないだろうけど、俺もその可能性を頭に入れた上で書いたよ。(←先に書いとけって話だけど、難しいね)
…っていう、この先に書いとけばよかった的な、予期せぬ偶然も、人(話が膨らみすぎるのも面白いけど、ややこしくなるから便宜上)を無意識の内に育てる可能性があるんじゃない?って感じ。
意味を自分の意思で作る事もできるけど、無意識的に作ってる事もあったりするし、「初めて」不意に転んだとしても、恐らく命に別状がない場合は(死後の事なぞわからん)、「不意に転ぶ事がある」という前提で会話や思考を広げていく事ができる。(意識的、無意識的問わず)
他人に話すとか、そういう行動も他人の役に立つ、の部類ではあるけど、自分が他人にしたくてやっているのだから、結局自分の為にもなっていると言えなくはないんじゃないかな?
と、思うんだけど。(他人が見る、は別)
実際起こりえた時、事実がどうなるのかはさっぱりわからんけど、もしかして優先度の変遷によって不毛と判断されればされる程「無駄」と解釈、判断されて行くうちに無駄と捉える可能性が高まるかもしれない、袋小路に陥るかもしれない、小瓶主さん的にはそれが気になるって事だろうか。
んーまあ、努力自体、運のようなものを含んでいるし、環境というのもそれを含む「かもしれない」、さらに別の運を含む、複合的な要素が組み合わさって出来たものだと考える事ができる。
となると何が起こるかわからないという運だらけで、実は好転する要素の散らばりもものすごく多いと考える事も出来るんじゃないかな。
(だからと言って楽観も悲観もする必要はないけれども、同じくしない必要もないのよね)
だから、小瓶主さんの文から抜粋するに、歩く事を躊躇う、歩けない程の痛みそのものを、はっきり自分自身で体感、認識して邪魔だと思考する事ができるわけだし、それって「本質」として無駄な事なんだろうか、と俺は考えてみました。
上手く書けてなかった、書いてなかった俺が悪いんだけど、最初らへんにある、自分の意思で言葉などの意味を、自発的に作る事とは別の話ね。
意識無意識問わず、その時は仕方がないとか、理不尽だという当人が解釈、判断した上での無駄が、本当に言葉通りの、全くの無駄かどうかはわからないんじゃないかというか。
その観点から考えると、無意味(無価値)ではあっても、実質は無価値(無意味)ではないといえばいいのか。
なんていうか、理不尽な事に対処できなくとも、その後は、理不尽な事がある、という認識込みで、理不尽の中で得たもの、痛みやら悲しみやら不毛だと感じたという、それそのものが培われた事だとして、その培われたものは応用が利く可能性もあるので無駄とは言えないんじゃないか、って事かな?
(無論、無駄に終わる可能性も込みでね)
主さんのしてる話の主題のような部分を覆してしまう(?)ので、多分それでややこしくしてしまっているんだけど、活かしようがないというか、活かそうと思おうが思わなかろうが、生きてるなら自然と生きてくる可能性も充分あるかも、みたいな事。
そこら辺俺はっきりしてなかったわ。
それと、えーと、正直に言うね。
無駄な事なんて1つもない、というのは気休めの嘘、と言われて、俺、端から見てただけだけどちょっと悲しかったというか、ムカついてしまって。
それも込みで前の文章を書いたので、ある程度落ち着いてからできるだけ気を付けようとしたんだけど、もし文章多すぎて勢い付き過ぎだとか思ったりしたらすまん。(毎度毎度、ほぼ文章長いんだけど)
言葉遣いに強く感じるものを抑えられてなかった箇所(中盤あたりか)や、悪く臭う感じがあったと思うので、不快に思ったらごめんなさい。それも含めて訳わからん所が多いかも。
とにかく、自分から前提だの持ち出して、議論みたいな感じにしておいて、感情が行き過ぎるのは適切じゃなかったと思ったんで。
気にしてなかったら気にせんといてな。(この話題はスルーで)
まあ、どれだけ書こうが所詮言葉は言葉だと思うんで、伝わらなかった(と思って俺が補足した)部分はいつかわかる事ができればそれでいいし、わからなかったらそれも良し。
悩んだり喜んだり悲しんだり、目一杯行動した中で、似たような事を味わったものにしか、真の思いの欠片も、考えの欠片もわからん。真に、知るという事もできん。所謂、それによって通じない事もあるのだー。
…かと言って、俺が伝える力がない事もある。運や他の沢山の要素もあるだろう。
いつもそうだ。…多分な。
(どうでもいいが、なんだか塊を転がして大きくしていく某ゲームを思い出してきたぞ…。)
磨耗とかに関して俺にはまだ、自分として考えを深められるだけ基準や知識というか、経験というか…材料が足りてないかな。
物質だと削れるけど、心とかになると、溶け込むとか、混ざるとか、まだ色々知らない事が含まれてるような気がして。
今はまだ自分がこれだと思える答えを出せそうもないや。
あくまで自分の考えとしては、だから、主さんの考え方もあると思う。
(寧ろ違う考え方を知れるのは良い機会だと思っているので、考えを深める機会も頂け、こんな立場からいうのもなんですが、重ねて有難うございます)
ただ、主さんの考え方を完璧に把握できるわけでもないし、その上で主さんの考えを否定出来るつもりもないんで。
あくまで自分の考えの列挙なんで、鵜呑みにはしないでね。
ななしさん
(小瓶主)
お寄せいただいた返信に対する返信です。
私の考えの整理を兼ねた結果かなりの長文になったので、面倒なら読み飛ばしていただいて結構です。
努力は必ずしも成果が出るものではないので、そこまで万能なものではなく、
努力したから結果がある、ということはあっても、単純に結果がある=努力した、結果がない=努力してない、とはいえないと思います。
そのため、他人の状況を考えるとき、
“良い環境にいるのは努力出来る性質であるから”、“悪い環境にいるのは努力出来ない性質であるから”とは、私は捉えていません。
『良い環境にいる人』というのは、本人の努力の賜物かもしれないし、運や巡り合わせ(=努力する前の初めの状況、努力でどうにか出来るかどうかというのもここに含まれると思います)によるものかもしれないし、あるいはその両方かもしれません。
『悪い環境にいる人』というのは、本人が努力してこなかったせいかもしれないし、努力はしたけど運や巡り合わせといったものに勝てなかったのかもしれません。
あるいは普段は努力出来る人だけど、それが間に合わなかったり、環境を変える前に疲れ果てて、努力する気力自体を失ってしまったのかもしれません。
同じ結果であるとしても、そこに至るまでは色々な理由があり得ると思います。
したがって、元の小瓶にある相談できる人の有無、趣味の有無、愚痴をこぼす場所の有無は、
努力出来るかどうかという本人の性質だけでは、一概には説明出来ないと考えます。
この場合、磨耗と慣れは個人的には殆ど同じものを表していると思います。
悪い意味での慣れ、慣れてはいけないものに対する慣れは、磨耗や麻痺と呼べるのではないかと。
何を不毛な痛みや苦しみとするかは本人の認識次第で、必ずしも不毛なものと認識されない、とは言い切れないと思います。
ご返信の中にある震災の例は、ご本人が不毛と捉えず意味を見出しているので、確かに何かしらを学べる痛みだったのかもしれません。
しかし、気を付けてどうにかなるわけではない(=理不尽で防災や小石に気をつけるなど危機管理の方法はない)、あるいは失った何かの大切さを学んだところでもう何も残ってないので(本人にとっては)仕方がないという痛みや苦しみもあると思います。
また、例えば転んで怪我をして痛みを感じた時、その痛みのために足が動かせなくなることがあると思います。
しかし、生きていくためにどうしても歩かなければならず、痛みに耐えながらのろのろと足を動かす時、その痛みは邪魔なものということになります。
そういう時、転んだ痛みから多少の何かを学べたとしても、優先順位的にはほとんど意味がなく、不毛な痛みと捉えられると思います。
そのような経験を繰り返すと、痛みや苦しみを感じること自体が“自分が今しなければならないこと”の前では邪魔になり、適応するために徐々に感覚を麻痺させていく(慣れてはいけないものへの慣れが出てくる、磨耗する)のではないかと考えました。
その経験を次に活かしようがない、失ったものの大切さを学んでも仕方がないタイプの痛みや苦しみであること、
加えてその痛みや苦しみは足が止まってしまうほどだが、足を止めていられる状況でないことが、元の小瓶で考えていた『傷付いたり苦しむこと』の前提でした。
痛みや苦しみが不毛ではなく何かを学び取れるということも当然あり得ますが、必ずしも全てがそうというわけではなく、『人間にとって』という大きな主語を当てはめることは出来ないと思います。
烏羽
ちょっと思う所があったので書いてみます。
…とはいえ、俺も5通目さん方と似たような感じかなあ。
ちょっと言えど、ちょっと所じゃなく長いのでご注意を。
結局、できるできないも推測にしか過ぎないし、逆に言えばそれをそう意味付けする事ができるのも人だし。
人間は言葉を作れるんだから、言葉に意味やイメージを付けられる筈で、って事は意味やイメージを考え出せる、自分の中に作れるんじゃないかと思うんだよね。
だから本当は、したいか、したくないか、今現在の自分から考えているだけだと思う。
無駄な経験など1つもない、というのは確かに嘘や気休めだね。けれど、確かに真実でもある。
様々な価値観があって、様々な人がいて、様々なものの見方がある以上、ぶっちゃけ誰にでも通用する正確な事なんて、ほぼないと思う。
あったとしても、指で数えられるくらいかもね。
そんな風に考えたりして、俺は使った事がある言葉。
事細かいので厳しく感じるかもしれんのだけど…
お返事を見るに、それ何故を嘘や気休めと思うのかという前提(だと俺が判断できたもの)がないし、それ自体がどんな言説なのか、それに対してどう思ったのかわからないから、自分としては本当に突き詰めて考えられないかな。
ただ、そのわからない上で自分なりに考えてみるんなら(これが失礼に当たる時もあるので、そん時はマジですまん)
確かに、必ずしも正確ではないね。でも、必ず正解ではない事もない、とも言えると思う。
心と同じよ。
形がないものに形を付けても、一面にはなるかもしれないが、その全てを余す事なく正確に、見えるような物質にして表す事などできる筈もない。(まず見えないものだし笑)
話は少し逸れるけど、心は一人の人から発せられる脳波や、脳波や化学物質だけで出来ているものじゃないし。
(その物質なりのやりとり込みで、心だろうなあ)
磨耗する事はあっても、同じように、宝石のように磨かれる事も、砂つぶのようになる事も、雪玉のように転がって大きくなる事もある。
ものじゃないから、無くなる、というのも、あるにはあるけど、本質的にはないと思う。
心には矛盾もあるし、はっきりしているわけでもなく、はっきりしていないわけでもなく、単純な化学反応だけで全てを推し量れる訳ではないと思うんね。
(よく誤解されがちなイメージを勝手に思い描いてるんだけど、本当は科学も宗教も絶対正しいものじゃなくて、人間の文明の蓄積、その一部だからね、後付けであって、それが全てじゃない。)
そもそも&もともと、心と心のやりとりなのだから、それを乗せる言葉にしたって同じ。
どんなに努力して、近付けることはできても、正確に全てを伝えられる訳もない。ましてや、当人や、当人が言葉を向けた人以外には、更に伝わらないんだろうね。
たとえ理不尽があっても、それに対して何もしようとしなくても、鬱屈なりなんなり、いつの間にか溜まると思うけどなあ。
だから、気付けなかろうが嫌な事は嫌だし、それに抗おう、それができなくとも何とか、なんとかしようと思ったり、いつの間にか動いてるものじゃない?
今までの自分の全てを、知らず知らず総動員してさ。
転べば転ぶとはどういう事なのか学び、痛みや悲しみやどうしようもなさ、後悔やらなんやら、そして瘡蓋を知る。
理不尽も同じように、理不尽とはなんなのかを知るからこそ、言葉に出す出さないは別に、理不尽とはどういうものかイメージして語れるものではないのかな?
理不尽の痛みや苦しみ、それらを知る事や、それらが自分にとって耐え難いものだと知る事は、無駄ではないと思う。
それに、なんとかなるものではない…例えば、いつの間にか宇宙がなくなって命がなくなっていたとか、そんな事対処しようがないし、起こるなんて考えないでしょ?
でも、それを想定したり、それに近い事を経験して、抱えて大事に生きていく事が無駄なのかというと、違うでしょ?
逆に、そんな事どうしようもない。考えても無駄だ。そんなの関係ないとして生きていく。
…と、思ったとしても、価値観が広がったという観点において、本当の意味で無駄なんてないと、俺は考えるかな。
理不尽な痛み、苦しみ、そういうものを体感して知るからこそ、同じような立場の人の気持ちがわかる事もある。
それが嫌なんだと、自分の事を知る事ができる。
理不尽、というか、起きた事は仕方がなかった、という事を知る事ができるかもしれない。
もちろん、だからと言って理不尽さを受けに行けと言うわけじゃない。誰だって嫌なもんは嫌だろ。
抗えるなら抗ったり、なんとかしようと、一度や二度でも思うもんだろ。
転びそうな人がいれば、自分が転んだ事を思い知ったからこそ、出来るかどうかは別にして、手を差し伸ばしたくなる事もあるっしょ。
よく綺麗事だとかいう言葉も聞くけど、綺麗事だからなんなんだろうとつくづく思うね。
そもそも、それがどう、誰に響くのか、誰にもわからんのだ。
綺麗事、そりゃそうさ。
言った当人なり、体感した事があったり、真正面からぶち当たって本気で悩んだ奴らにしか、その本当の意味は解らんだろうよ。
俺も馬鹿だから、だから何?としか思えんかったが、そういうものもあるにはあると学んだ。
言葉が悪くなるのですまんのだけど、時には、じゃない。
気休めや体裁の良い上っ面としてその言葉を使った事はないが、気休め、というか思いやりはいつも必要なんじゃないかね。
人間だからな。オイルや歯車、必要な部品だけを変えれば済むってもんじゃない。
思いやりのそれだけがあれば充分って訳でもない。
そういう点から見れば不便かもしれんが、だからこそ、不便を知る事で、効率とは何かとなんなり、自分のペースなりなんなり、相手を慮るなりなんなり、知る事ができる。更に増える価値観がある。
その増える価値観や、その中で悩んで、必死こいて考えたのが、科学や宗教やら文明やら、人という枠を外れれば、遺伝子やらだと思う。
それらを作り出したり、生み出したり。…そう考えてみると、それには全部必要だったんじゃないか?って。
そうして、その時その時の全部を持ってして、未来を思ってくれた人がいるからこそ、ここに生きてるんだと思う。
良い未来にしようとして来てくれた人がいるからこそ、人類の文明が発展してきたんじゃないんかな、と思うよ。
(読み返してみると何故か、いつの間にやら壮大になった笑)
まあ、要所要所違うと思う事があるなら違うでいいんだわ。
無理矢理、訳もわからず価値観を変えられても、俺も困るし申し訳ない。
そもそも、全部考えた事であって、事実かどうかもわからんしな。
ただ、最後に、余計かもしんないけど、大事だと思ったので。
その発達障害だか自閉症スペクトラムだかなんだか詳しくはわかんないけど、そういう人であっても、心がないわけではないと思うよ。
平均(という言葉もなんだか微妙だが)から見ると、とても小さい心の動きだと言えるかもしれないけどさ。赤ん坊の頃なんて、みんなそうだったと思う。
訳もわからず泣いて、訳もわからずから笑いして、どんな感情だとかなんだとか、あとから知ってったもんじゃないかなあと。
発達障害の事を詳しく知らんけど、要因になるのは先天性のものちゃうん?剥ぎ取られたんじゃなくて、その発達が他より遅いだけじゃないかね。
障害だとかから敬遠されるイメージがあるけど、もともと成長なり理解なり学びの速度なり、人それぞれ違うもんだし。
…というか、俺も詳しい知識がない上、そのSNSも知らん上での返事だからなんとも言えんのだが、本当にそれ発達障害なのか…?
別に答えんでええけどね(お返事強要じゃないって事ね)
本当に(先天的な)発達障害なら、まあネット知識なのであてにはならんけど、摩耗とはあまり関係がないような気がしたもんで。
ななしさん
本人のステータスは本人の頑張りでどうにかなるんじゃないかな。
馬鹿だから無理、障害があるから無理というのは理屈にならない。同じように勉強が苦手だったり、障害を持ちながらも頑張っていたり愛される人もいるじゃん?
もちろん、人によって得意不得意があるのはわかるよ。
でもさ、不得意を得意でカバーする方法はあるでしょ。数学が苦手なら他の教科の点数を上げるとか、数学の試験をやらなくても済む選択科目の受験の大学を受けるとか。
頭が悪いなら人に何でも聞くのもいい。代わりにやってもらうこともいい。そして何より、助けてもらえるような関係性を普段から作るのが大事。
ひとつ苦手なだけで人生全部ダメになるのだとしたら、それは自分が、そのひとつ以外の他のことすら、ちゃんとやってこなかった証拠なんじゃないかな。
勉強も人間関係もその他の多くのことも、中途半端だから、自分の土台がない。だから苦しくても吐き出す場所、聞いてくれる人が見つけられていない。
感情が鈍くなったなら、それは磨耗じゃなくて慣れなんじゃない?
毎日食べてるご飯がなくなったらご飯の有り難みを痛感するみたいに、日常生活に慣れて、それに退屈してるみたいな印象。
長く生きたら目新しい経験は少なくなるから、刺激がなくなるのは当然。
それに安心できる人は周りに感謝しながら過ごせばいいし、寂しさや虚しさを感じるなら自分から何か新しいことをやればいいだけ。
自分は何も感じない、という宣言の元に、乾燥したままでいる必要はない。
確かに、巡り合わせは完全に運だよ。
でも出会った人を自分にとってどんな人にするかは自分次第。
オドオドしてる人には強気ないじめっ子も、しっかりしてる人にはペコペコ下手に出ることがあるでしょう?社長が変わったことで社員の意識が変わって、業績が回復する会社もあるよね。
自分が変わることで、周りが変わることは充分ある。
それから、最後の「気をつけても避けられない苦しみからは何を学べるか」ということ。
私は以前の震災で友達を亡くしました。
避けられない、どうしようもないことです。
地震なんてなければいいと思うし、夜中の地震でも人が死なない時代になって欲しい。
でも、もう起こってしまったことです。
取り返しがつかない。
だとしたら、そこから何も得るものがないままでは駄目だと思いました。死んだ瞬間私の人生に無意味なものになってしまうなら、彼女の存在はその程度の軽薄なものということになってしまうから。
死ぬ程悲しんで彼女の大切さを思い知ることも、防災の意識を持つことも、自分は大切な人のために気をつけて生きようと思うことも、全部取り返しがつかない苦しみから私がかろうじて拾い上げたものです。
経験を有意義にするか無意味にするかは、経験の内容じゃなくて自分の心が決める。今すぐじゃなく10年後に活きてくる経験だってたくさんある。
出来事に無意味のハンコを押して流してしまうと、やがて見逃してはいけないものを見逃してしまうかもしれないよ。
ななしさん
(小瓶主)
一応補足。
環境は本人の努力の有無だけで説明出来るものではないです。
運や巡り合わせの要素もあります。
そして、悪い環境だった場合にそこから飛び出せるかどうか、別の場所で生きていけるかどうかは、本人のステータスによります。
ゆえに環境を変える(努力する)のが困難な人もいる。
人の感情も、確かに失われ得るものだと思います。
この辺の感覚は人によって全く異なるのでしょうが、例えば、感情が湧く閾値が上がるとか、感覚が麻痺するとか、そんな感じだと思います。
感情とか心というのは、川を転がる石ころのように、外の力によって徐々に磨耗して変化していくものではないかと思います。
そうでない人も当然いるでしょうが、磨耗していっている人も存在すると思います。
石ころそのものを失って木偶の坊になってるような人は、さすがに今のところ見たことはありませんが。
転んで痛かったから、気をつけて再発を防止するというのは理解できますが、気をつけて何とかなるものではない理不尽な痛みや苦しみからは何を学べるというのでしょう。
無駄な経験など1つもない、というのは、気休めの嘘だというのが私の考えです。
時には気休めも必要ですが、本当に突き詰めて考えるなら、この手の言説は必ずしも正確ではないと私は考えています。
ななしさん
んー…助けてくれる周りの人がいたり、趣味を見つけられるのは、人間関係を作り上げたり新しいものに挑戦した、いわば幸せになる為の努力によるものだから、その人自身の性質に含まれるんじゃないかな 。
それに人間にとって、傷ついたり悲しみは不毛とは認識されていない。むしろ重要。
転ばない工夫をするのは、転んで怪我をして痛かった経験があるからでしょう?幸せより不幸の方が人を成長させる。
感情を失っていく。そんなことがあり得るかな。
それは喜怒哀楽を感じていないのではなく、単に表に出さないだけだ。
嬉しくても浮かれず、神妙な顔でいなければならない時もある。悲しくてもその場では泣かずに、トラブル解決に動かなければならない時もある。
人前で表現できる感情だけが感情と呼べるというなら、この小瓶にも多く寄せられている、誰も見ていない所でしか泣けない人達の気持ちは一体何だろう?
感情を無くしていくのが大人なのではなく。
自分に感情があるように、他人にもそれぞれ感情があると理解していて、自分本位な行動をたやすく取らない人が大人なんだと思う。
消費財と呟いた人は、きっと、仕事にも人にも恵まれていなかったんだろう。
自分の人生を消費することによって、絶対に何かを生み出していたはずなのに、それを認めてもらえなかったんだろうね。
でも、それならその人には職場を変える・周りの人を変える選択もあった。
悲しみや苦しみが山ほどある世界だから、自分を幸せにし続ける努力は生涯怠ってはならないんだろうな。
ななしさん
分かる気がする
人から傷付けられたりを繰り返すと人からまた裏切られても何も思わなくなる。というよりも裏切られたとすら感じない。だって期待していないし、そもそも相手に興味すら抱いていないから。感情が無くなる感覚は自分でよく分かる。感情が無くなっていると他人の事なんてどうでもよくなる。他人からどう思われていようがね
ななしさん
消費財。その通りだと思う。
仕事に限っていえば、業務上の『替わり』などいくらでもいる。
品質は違えど、皆、歯車の一部にすぎない。
だが、たとえ消費財であってもその一生に『代わり』はきかない。
以下はまだお返事がない小瓶です。
お返事をしていただけると小瓶主さんはとてもうれしいと思います。