違和感があるのです。
「死にたい」「死ぬ」「死ね」
死という言葉が溢れていることが変だなと思うのです。
死ぬことって以外と難しかった。
よっっっぽどの強い意思を持つか、
はたまた理性をかなぐり捨てて、
衝動に完全に身を任せきるか。
そうでもしないと自殺なんてできないのだろうし、実際そこに辿り着くのはとても難しいと思うのです。
死は、おそらく一番確実な逃げ道です。
本当に死のうとする時って、
死ぬか、(言い方は大袈裟かもしれませんが)目の前の問題で身を滅ぼすかのどちらかの選択肢しかなくなってしまうのですよね。
あるいは、死の一択。
第三の選択肢を見出すという視点がすっかり抜け落ちてしまう。
人間窮地に陥ると、視野が狭くなるものなのですね。
日常的に「死にたい」「死ぬ」「死ね」を使う人たちって、
死という現象において、
少なくとも自殺に至るまでの過程を
軽視しているのだろうなと思うのです。
だから人の痛みがわからないのかもしれない。
なぜ安易に死という発想に辿り着くのでしょうか。
「死ね」の代わりに
「3時間気絶してろ」とか
「足の小指をぶつけて痛みでのたうちまわれ」とかではいけないのでしょうか。
死刑がもっとも重い刑であるように、
死は、人の生命活動を脅かす(というか停止させる)確実な方法であるからなのでしょうか。
同時に死は、
自分の存在を一瞬にして消す方法であり、
「死ね」という言葉は、
相手の存在の消滅を望む言葉として届くからでしょうか。
一度自殺未遂をしてから、私は安易に死という言葉を使えなくなりました。
別に誰かにもそれを強制するつもりはないのです。
「死にたい」「死ぬ」と口にする人には、
本当にそれしか逃げ道がない人がいるのかもしれないし、
「死ね」と口にする人には、
相手を恨んで憎んで許せなくてやるせない人がいるかもしれない。
けれど、「死」という言葉が溢れているのはやっぱりおかしいと思うのです。
「死」という尺度でしか、物事をはかれないのは、おかしいと思うのです。
「死」で相手を罵るなんて、ただのボキャ貧だと思うのです。
何でそんな風に、
重たい言葉を容易に使えるのだろう。
社会が、とか環境が、とか周囲が、とか
理由はいっぱいあるのかもしれないけれど
じゃあ、あなたは
その言葉に縋っていたいのですか。
違和感を感じたことはないのですか。
こんなことを偉そうに書ける自分ではないのですが、
最近むくむくと膨らむ疑問を、
今の自分の言葉でぶつけてみました。
48305通目の宛名のないメール
お返事が届いています
名前のない小瓶
何度も死にかけたことがある者ですが、死にたい、暑すぎて死にそう、死んだ方がまし、と死という言葉を使います。人に対しての死ね、殺すなどは言いません。
死ぬのは確かに簡単なことではありません。私の場合は自殺未遂もありましたが、病気や事故もありました。いずれもとても大変だった出来事です。
では、なぜ死ぬのが大変と分かっているのに私が死という言葉を簡単に使うのかというと、あまりに深刻なものなので冗談にしてしまいたいのだと思います。病気で死にそうなとき、「私が死んでもお墓に供える花は買わなくて良いよ。道端に咲いてる花でも供えてね」と冗談で言うと深刻な周りは少し笑うことができて、「えー、それくらい買うよ」と返答があったら、「周りにお花代を遣わせないために死なないように頑張るね」というようなやり取りで安心させられるのです。
死にたい、暑すぎて死にそう、死んだ方がましというような言葉を使うときは、実際に死にかけたときのことを思い出して、現在の苦痛の方が上回っていたら言います。死ぬのは大変ですが、生きる方がもっと大変なことも多いです。
人に対して死という言葉を使うべきではないと思いますが、自分の死のことは使う人に寛容になっていただけませんか。死にたいという気持ちを吐き出すことはストッパーであり、生きるためなんです。それを批判されてしまうともっと自殺者が増えてしまいます。
喜怒哀楽、どの感情を表す言葉も必要だからあるんだと思います。無理に負の感情を抑え込むと後から大変です。
このサイトでも死についての発言をされる方がいらっしゃるので、その方たちへの肯定として反論を述べさせていただきました。小瓶主様の死への敬虔な思いは個人としてそれを持っている分には素晴らしいと思います。
ラピス
りぃふさんのおっしゃると通り、簡単に「死」という言葉をつかう人は、普段からその言葉の重みを考えていない人・ボキャ貧の人ではないかと思います。
でも「死」以外にも、あまり考えて言葉を選んでいない人って多い気がします。例えば「ウケる」とか「ヤバい」とか。私は、この言葉に、笑えてくるとか、大変な~、大変だという意味があると思っているのですが、特に意味を考えず、感嘆詞のような感じで使われているように感じます。
「死」も、「ウケる」や「ヤバい」のように、特に意味を考えず使っているのかと。
多分、「死ね」と言っている人は、本当に相手がその言葉のせいで死んでしまうことなんて考えていないですよ。相手に何かしらの嫌な思いがあるけどそれを解決するような建設的なことをするのは面倒だ。だから「死ね」という究極の言葉をつかう。
逆に、「死ぬ」「死にたい」と言っている人は私から見たら、注目されたい(同情されたい)という心の裏返しに見えます。本人はそう思っているわけではない、と言うのでしょうが、自分はそう思っていると自覚できる感情と、その感情を受け入れられなくて、本当はそう思っているけど、自覚できない感情があります。本当に死にたいと思っている人は、死ぬという言葉の有無に関わらず、本当に死ぬと思いますし。
ただ…、私が気になるのは、「死んだらそれで終わりなのかな?」ということです。
宗教やオカルトっぽい話だと、転生後とか地獄とか…そういう話もありますし、そういう話でなくても、葬儀費用とか身辺整理とか、自分が死んだ時に発生する、色々な面倒ごとをちゃんと整理できているかとか…
親とか親しい人とか、自分がいなくなることで悲しんだり、辛い思いさせる人は居ないかとか(そういう人には事前にどんなフォローができるかとか)、そういうこと、考えてるのかな、と。
ななしさん
死っていう言葉の暴力性をもっと広い年代に知って欲しいよね。簡単に死にたいや死ねって発言する人は重みをわかってないなって思う。
まゆたま
おっしゃる通りだなぁと拝見致しました。
相手が腹立たしくても
容易に使うべき言葉では無いですよね。
と、同時に主さんの
「3時間気絶してろ」や
「足の小指…」の表現力の豊かさに
クスッとしてしまいました。
わたしはそういう表現、すごく好きです。
ななしさん
「過激でわかりやすい」所が好まれてるのかなあと思った。
「超○○」みたいな感覚で。
実際の「死」とは使用法がかけ離れてるし、「同音異義語」くらいの感じで私は捉えてる。
苦しさや不快感を上手く表現できない人が使ってしまう言葉、みたいな。
まあ、身近にすぐ「死ね」とか言っちゃう人がいたら「…」って気分にはなる。
ななしさん
私は死だけが特別扱いされてるのに違和感あるな。
言い方を変えても憎しみや逃げたい心、傷付く心に変わりはないのに。
名前のない小瓶
個人的な考えだけど、やっぱりメディアとかSNSの発達が原因ではないかと思うのです。
「死にたい」「死んでほしい」って周りに言い出しにくい事だろうけど、匿名性ってその言い出しにくさを帳消しにしてしまう。
私は、その事自体は100%間違っているとは思いません。
何であれ形にすることで解消される気持ちってあると思うし、それをキャッチしてくれる人が解決することがあり得るからです(あるいは逮捕されるかもしれないけど)。
死にたい人であれ殺したい人であれ、第一の選択肢が『死』ではない。何かの望みが叶わないがゆえに、それを叶えたい、生きていたいという気持ちの裏返しが、生命の本質に逆らうように思える『死』なのです。
だけど、りぃふさんの言っている事も正しいです。いや、そっちの方がきっと正しいです。
『死のメッセージ』をキャッチしてくれる人がいつでも解決者というわけではない。例え意図しなくてもそれを受け取る人が苦痛を感じる事はありうる。乱暴な言い方かもしれないけど、『死にたい』と漏らす事が、誰かを『死にたい』と思わせかねない。
やっぱり、何の気も無く『死』と言わない方がいいと思います。
キツイ言い方かもしれないけど、本当に苦しくて『死にたい』とこぼすのだとしても、せめてその理由を追記してほしい。
以下はまだお返事がない小瓶です。
お返事をしていただけると小瓶主さんはとてもうれしいと思います。