人を思う心。自分を思う心。
命はどこに宿るのかもわからないまま。
水は流れるし、風は吹くし、太陽は照り輝き、雲はそれを時に隠す。
熱も冷えも流れる。
人を笑う人。それを笑う人。
笑う人を泣く人。泣く人に泣く人。
何気ない話に悲しみを覚える人。
悪意に満ちた話を知らず知らず回避する人。
ひと、ひと、ひと。
俺は何を思ったのかもわからず書く。
自分の心に惑う人。
人という字の形は、まるで屋根のようだ。
屋根の形に迷う人。
屋根は雨風を受け流し、凌ぎ、家に、家の形という蓋をする。
家の上にあり、壁や柱がなければ屋根の役割を果たせない。
この胸の暗い燻りはいつ燃えるのだろうか。
暖炉の火は暖かい。
家を灰にする程の力も秘めている。
不安ではない。
陰りでもない。
燻りだ。
燃えるかどうかもわからぬ燻り。
それは煙の行く末を憂う人。
憂う人の行く末を憂う人。
そうだな。
せめても、それなりには清く澄んだ炎、煙でありたいものだ。
いつかきっと、燻りへの答えが、見えてこれるように。
今はそう思うしかあるまい。
49894通目の宛名のないメール
お返事が届いています
烏羽
(小瓶主)
二通目さんへ
生きているという確証。
きっと、それを望むという事自体が、生きている確証の1つなのかもしれませんね。
よくよく思えば不思議な事ばかり。
なぜ小瓶を書いたのか、なぜ今返事を書いているのか、よくわかりもしない。
答えが出たからといって、それが未来の先に通じているかもわからない。
けれど、案外単純で、不思議だけど不思議じゃない所もあったりする。
心の中の理性や理屈で物事を考えたりもするが、心で感情が巻き起こったり、感情を感じて、それが行動の源になったりする事もあるかと思う。
考えている時はもう、過去の感情が湧いて来てない場合もあるから、心の内の、理性の中の理屈だけで、感情を置き去りにした考えだけが先に行ってしまう。
俺はその時、そうなんじゃないかって時に不思議だと思う事が多いような気がする。
逆に、感情が理性や理屈を置いていってしまうと、常に違和感を覚えるというか、行動していてつっかえのような感覚を覚えたり。
個人の感覚だから、人によるだろうけどね。
そういう自分なりの感覚、自分なりの理屈とか筋道を、自分の事を知りたいのもあって考える。
勿論、行動しない事には考える材料とでも言えるものが入ってこないので、感情と理性の関係みたいに、考えと行動(≒考えない事)も共にないと困るだろうけれど。
限られた時間を学びたいと思って過ごせば、学ぶ時間にもなる。
それぞれ思う良いも悪いもあるだろうが、自分の見たいものを見るのも、人間の1つの能力だと思う。
つまるところ、納得が行くまで、納得したいからが為に答えを求め続けるんなら、納得出来ない答えは答えとして受け入れられない場合もあるだろうし、ただ単に納得しようとして求めるんなら、どんな答えでも納得がいく場合もある。
置き去り以外に、そういうのもあるかもしれない。
だから、考えるという事の中で、時に袋小路に陥る事もある。
それ以上の答えがない答えを求めてしまう事もある。
考える事は楽しかったり、自由なものではあるが、その考える事の土台ははっきりさせておいた方がいいんだろうな。
何を持ってその疑問を解こうとするのか。
学ぶ意思、望む確証、お大事にー。
書いていて眠くなってきたので、俺は寝る。
烏羽
(小瓶主)
一通目さんへ
いえ、閃きのきっかけはあなた自身の内にあるものですから、感謝される事でもありません…、とでも言いたいのですがね。
良くも悪くも受け取られない感謝の行方の1つとして、もしかすると神さん方がいらっしゃった事もあったのかなーなんて。
食べ物も、それよりなる血肉も神から賜ったもの。
神の力を一時的に貰い受けている。
だから終わりがあり、続きもあるのかなーなんて思ったり。
自分のものであって、自分のものではないですもんね。
土も、火も、水も、風も、太陽の光も、深い暗さも。
自分のものではないけれど、持ってるものをそれぞれの自分なりに尽くして、やっと生きる事が出来る。出来ている。
「自分のものではない」という感覚もまた、ある時代からなる畏怖や距離感という教え、教訓かもしれず、あるいは後悔や先見の明かもしれず。
自分以上の力を持とうとしない血なのかもしれず。
1つの考えや心にも、神が宿るかもしれず。
なんも大した事は書いてないんですけどね。
その大した事のない、というものが、自身にとってどれだけ大切なものことなのか。
その大切さがどれだけか、人自身が決めるものではなくても、そうありたいと思ったあり方がそれを決めて行くのだろうと。
だからこそ無下にはしたくない。
返しきれない感謝の思いを伝えようとするが為にも。
とても表す事の難しい気持ちだ。
きっと生き人が神様にはなれないのだろう。
生き人らしく生きて行こう。
神はきっと、その屋根に御座す。
だから倫理を守りたくもなる。
人としての誇りを持って、生きたくもなる。
答えは束の間の美しさ。
美しさを覚える、その心。
水にしか潤せぬものがあるように、火にしか潤せぬものがあるように、風にしか潤せぬものがあるように…
その心の燻りにしか出せない答えもあるだろう。
表現はなんだっていいが、きっとあなたは燃えたんだろうな。
その揺らめきが暖かい。
ななしさん
深い。私は何故私自身が人間として、また、この国に生まれて来たのだろうかとか、何故私はこうしているのだろうかとか、哲学的なことを考えて生きています。ぼーっとしている時に、何故私はあの子と仲良くなったのかなとか、人が誰かを好きになったりする事とか、疑問だったり不思議に思ったりします。
生きている間限られた時間の中でしか学べないけど、学ぶ意思があれば学べるんだと。
ただ今現在進行系で、いらないものは除外して学ばない事もあるが、私は生きているんだという確証とか望んでいるんだ。
ななしさん
関係ないかもですが、昨日見たアイヌの長老の動画を思い出しました。
アイヌの人々は
火にも、水にも、風にも、太陽にも、雲にも、草木にも、動植物にも、すべてに神が宿ると考え、
森羅万象のすべてに感謝して生きているそうです。
すてきだし、本当にそうだよな、とおもいました。
物理的な
家にも、柱にも、壁にも、
屋根にも、暖炉にも、灰にも、
そして人間ひとりひとりの中にも、
すべての中に神様がいる。
あなたも神様、わたしも神様。
この肺を満たす空気も神様。
世界のすべてが、みんな神様。
神の涙は美しく、神の怒りも美しい。
だから、この世のすべての、怒りも、悲しみも、燻りすらも、美しい。
私たちは、ただ、その美しさを味わう。
その美しさに触れられることに、感謝する。
なんて言葉が、私の中にうかびました。
閃きのきっかけをくれて、ありがとう。
以下はまだお返事がない小瓶です。
お返事をしていただけると小瓶主さんはとてもうれしいと思います。