このサイトを見つけたのは私が自殺をしようとようやく決意できた日でした。
きっとこの話を他の人にすることは二度とないと思うので変な文章かもしれませんがこの手紙を見つけた人に少しでも読んでもらえたら嬉しいです。
長くなりますが良ければ暇つぶしにしてください。
私は昔から両親に愛されていませんでした。
それは父からも母からもです。
母親は私を産んだ頃から"母"になったことで日に日に疲れやせ細り私が育ち大きくなると同時に私が憎いと嫌いだと言って、すぐに手がでる母親になりました。
記憶の片隅にある母はいつも怒っています。私は母の笑顔を思い出すことが出来ません。
5歳ぐらいの時には叩かれ殴られていましたし菜箸で何度も何度も足や、腕や背中や顔を叩かれるのが普通でした。
ご飯は母の気分によって、よく抜かれることも多く小学生4年生の頃には朝昼晩全てのご飯を一切作って貰えなくなりました。なので今も私はコンビニでおにぎりを買ったり、冷蔵庫の中にあるものを勝手に漁ったりして空腹を凌いで来ました。
運動会や、遠足にお弁当を持ってこれる子が羨ましくて羨ましくてつめたいパンをかじる度になんだかとても悲しい味がしていました。
父親は普段は物腰が柔らかく近所では7優しい人」だと「いい人」として広まっているようでした。
ですがその父の目が私を写していたことはなかったように思えます。
父は自分の思い通りにならないと気がすまず怒りが最高潮に達するとすぐに物や私にあたりました。
パソコンや、テレビ、カーテンや食器…父が壊したものを上げればきっとキリがありません。もちろんその中には私が友人から貰った物や、大切にしていたものもありました。
ひどい時は灰皿を頭に投げられました。あれは痛かったです…(笑)
そんな父は自分がよく見えることが好きなようでした、だからかもしれません父は私に勉強をしろとよく言いました。
私は勉強自体はきらいではありませんでしたがそれでもいくら頑張っても父の目指す理想には届きませんでした。私は本当は夢がありそれを密かに目指していましたが、それがバレた時「二度とお前に夢は見させない」「お前に趣味は要らない」と言われ私の中でなんのために勉強をしているのか分からなくなりました。
中学生になった頃には母は私を居ないものとして扱っているようでした。話しかけても無視されるようになりました。"ただいま"と言っても"おかえり"と聞こえない、そんなところが私の家でした。
父はより暴力が増え私の体はお世辞にも綺麗とは言えなかったです。
年中長袖を着てるので暑くないの?と聞かれることが多かったけれど私は服が長ければ長いほど安心しました。
学校では、1人の先生から酷い扱いを受けました。その人は私を人目見た時から気に入らなかったと後に聞きました。
90点以上を毎回とっても成績表につくのは3、その先生が気に入ってる生徒は30点で3だったのにはさすがの私も心にくるものがありました。生徒差別が激しく彼女の授業はよくその日の先生の気分で全てが決まると皆が噂する程でした。ここでも言いづらいことを幾度とされ私の壊れかけていた心はこの先生のおかげでより壊れました。中学3年生になった頃には心も身体も限界で死にたい気持ちが強くなりリスカをしてしまうようになりました。
勿論初めてやった時は思わぬ痛みにすぐにやめよう、と思いました。ですが苦しくなると何故がカッターに手が伸びそれをしてしまうように救いを求めるように縋ってしまいました。
痛みと赤い血が私が生きていることを教えてくれ、同時にやっている時は何も考えずに済みました。
そんなリスカをして私はかれこれ3年、今は高校2年生です。
高校生になるまでにも色々ありました…がもうこれ以上は限界だと心が悲鳴をあげました。
私は近々自殺をします。
もしかしたらこれが私の遺書になってくれるかもしれませんね…。
貴重な時間を割いて私の手紙を見てくださった方ありがとうございます。
今だけは私が1番幸せかもしれません!
先立つ不幸をお許しください。
そして来世では自分のしたいことを夢を叶えたいです。
あったかいご飯をこれでもかってぐらい食べて、家族旅行にだっていってみたいです。
父や母が笑う顔を写真に収めて私も笑うんです。
傷が無い体で可愛い服も着てみたいです。
海は綺麗なんでしょうか、潮風を肌で感じて息を思いっきり吸いたいです。それで…
笑顔が溢れる日常を私にください
次は自分をもっと好きになれますように。
ありがとうございました。