「頑張れない時は、既に頑張っているから頑張れない」らしい。
今、自分が頑張らなくて調べてみた結果がこれです。
いや、頑張ってないし。何もしてない。
何を頑張っていると言うんだ…
愚痴ってたら
『生きてる事を頑張ってるんじゃない?』
って言われました。
うん、確かに。生きるのしんどい。
でもさ、前はもっと頑張ってたよ。
生きてた上に、他のこともしてた。頑張った……と思う。(当社比)
あー、でも頑張れる量が決まってるとして生きる事の質量?量積?が変わるとしたら?
それで「生きる」だけでしんどくなってるのでしょうか?
でも、勉強や仕事が頑張らなくて結果が出せず、でも自分は必死でもがいた。
誰か『あなたは頑張ったと言うけれど何を頑張ったの?』
私『生きる事を頑張りました。』
これで許される?
そんな訳ない。
だったら、「頑張れないのは、既に頑張っているから」なんて慰めにもならないよ
結局頑張れないのは自分が悪いのかな
自分が自分に甘いのかな
もっと自分に鞭打って、死ぬ気でやればいいのかな
きっと、そうしないといけない
なんでできないんだ、やらないんだ
辛いのが嫌なんだよね。わがままだ。
このサイトの中なら、病んでる人が多くてしかも検閲も入るから寄り添ってくれたり肯定してくれたり励ましてくれる人がいて、同じ事で悩んでる人もいて、精神異常者?には優しい時代だと錯覚するけれどいざ外へ出ると風当たりが辛い。
そう思いませんか?
元気出せってその「元気」ってなんなの?
気楽に考えろって、「気楽」と「投げやり」「テキトー」の違いってなんなの?
お金とかの心配もなく、生活面や周りの人の理解も得て少し社会から離れて心を休ませる期間を頂けたとして、社会復帰しようとしたときの履歴書
面接官『この期間あなたは何してたの?』
私『心を病んだので休養してました。』
ニートしてたとか、引き篭もってたとか
有り体に言えばそう言う事と社会には認識されそう。
もし、病気として認識してもらえても持病持ちでしかも心の病って言うと会社的にも雇いにくいのではないかな
バイトなら雇ってもらえても、バイトじゃ安定しないし老後に心配もあるし
心が疲れたから人生休むのが認められる社会に住みたい。
ななしさん
あなたの欲しい答えじゃないかもしれませんが…
それでもね、自分で自分を許せるかどうかは、長い目で見たら大事な要素です。
なぜなら、許せずにいるほどそこに割く分の心的エネルギーが膨大すぎて、余計身動きが取れなくなるから。
それに、「今の」社会的に許されるかどうかにばかりこだわってたら、結局そういう場以外に目を向けるチャンスも逃してしまいます。
今は価値観の大幅な変換期らしいので、従来の「普通」にしがみつく人も多いですけど、近いうちに履歴書だって大した意味をなさなくなるかもしれません。
少なくとも、生き方の幅は半世紀前よりずっと広がっています。
社会のあり方だって、もっと生身の人間の実情に合った方向に転換されるかもしれません。
私たち一人一人が、ちゃんとそれを望んで思い描き、声を上げて行けば。