私の情けない恨み言です。
私は高校卒業後、早速事務職に就いて毒家庭の家計を支えました。
小中とスクールカースト最底辺でいじめられていましたが、成人式では、あかるくてきれいになった(と、自分で思っている)私を見せて、情けない立場を変えたいとも少し思っていました。
しかし家計の事情では振り袖は絶対ムリなので、レンタル衣装でスーツを借りました。
成人式も近くなった夕飯時、私は何気なく
「うちにはお母さんもいないけど、スーツがレンタルできて、成人式に出られるだけ、幸せだよね」と自分に言い聞かせました。
すると馬鹿毒父は、「俺がオメーらに苦労させてるって言いたいんかー!!」とキレ、私の作った夕飯や味噌汁をぶちまけて大暴れしていきました。いやいや、家庭に一銭も入れず十分娘に苦労させてますけど。
そして、先日の小瓶に流したときに少し書きましたが、あの毒家庭では未だに薪のお風呂で、冬場は入浴は週1〜2回と決められていましたが、自分の立場が情けなかった私は「成人式の前の日くらい、お風呂に入りたいのですが…どうでしょうか、よろしいでしょうか」と許しを請いに毒祖母の部屋へ直談判にいきました。(まだ、私が自腹でシャワーをつける前でしたし、毒祖母の部屋は、愛玩妹以外の子は入室を禁止されていました)
すると「孫に振り回されたくないんじやーー!!」と、こちらもきれっきれにキレました。
私は、風呂も入らず、汚い体でレンタルスーツを着て成人式に臨みました。が、一生懸命話しかけても、スクールカーストは未だに健在で、誰も会話をしてもらえませんでした。
ただ、町の写真館のおじさんが、私の写真を撮ってくださり、しばらくの間店に飾ってくれました。
3年後、愛玩妹の成人式が近くなった正月明け…。
いつものように、激務から帰宅した私を待ち受けていたのは、大きな金ピカの仏壇が飾ってある座敷に一際目立つように飾ってあった、豪華絢爛な振り袖と小物一式でした。毒祖母から愛玩妹への、成人式のお祝いでした。
私は頭が真っ白になりました。
その振り袖は、総絞りで、鮮やかで、見る人が見たらわかる高級なものでした。毒祖母は見栄っ張りで、近所の人々を招待し、愛玩子の成人式の振り袖を披露して自慢していたのでした。
妹も毒祖母と一緒になってわたしを一瞥し、
「これ見てやお姉ちゃん。私の振り袖を。」と、ドヤ顔しました。
…私は自分でお金を払ってレンタルでスーツを着たのに?
…アルバイト代全部小遣いにして、社会保険料も毒祖父母に払ってもらってるあんたが?
…私は家計を支えているのに?
…なんで私の時はみんなにキレられて、貴女は祝福されてるの?
一気に気が抜けました。
妹は、バイト代がまるまるあるのに、前々からちょくちょく私の服や靴、鞄や下着までを盗んで着用していました。
私もバカバカしくなってとうとう、妹のカーディガンを一着盗みました。
妹は、自分が私からいろいろ盗んでいたくせに、お姉ちゃんが服を盗んだ!!と大騒ぎしました。
毒叔母(毒祖母のお気に入りの愛娘、毒父の妹)が、わたしを責めました。妹ちゃんに服を返してやれと。
そこで初めて、私も妹から沢山衣類等盗まれていること、私が家を自腹で修繕していることを伝えました。
毒叔母は、それについてはなにも言わず、ただ、かわいい妹ちゃんに服を返せとだけ言ってさりました。
若い娘だった私には、いじめられっ子だった私には、成人式に向かっては、惨めでも特別な思い入れがありました。
毒家庭育ちの方々は、私のような、こんな経験ばかりなのではないでしょうか。 成人式の一件が、長年積もり積もった差別の決定打となりました。
加害者は、いつまでも恨みがましい事言うんじゃないよ、と被害者を小馬鹿にしますが、そんな簡単な問題ではないです。
えこひいきや、差別は、あの毒家庭ではどちらかが死ぬまでずっと続きます。おばさんになってもいつまでも寵愛を受け、他人を見下す妹です。
私は、毒家庭を脱出し、独りで、後遺症である鬱とともに生き、頭をぶつけ、方方で恥をかき散らかしながら生きて来て、結果として解毒が進んでいます。
ただただ、穏やかに、平凡に。あまり他人と関わらず生きていきたいです。
深く関わると搾取され利用されるからです。今の私では、まだ。