ななしさん
小瓶を流してくださりありがとう。
私にとって新しい見解です。
私の解釈や想像が間違えているかもしれないけれど、お返事を書きます。
自分の意思を殺し社会に流されている人が苦しさを感じていたら、苦しい感覚があるから死にたいと考えるのかも。
自分の意思を殺し社会に流されていても、許容範囲の痛みなら、死体なのか?
もしも小瓶主さんの痛みや苦労が、小瓶主さんにとって許容範囲ではないなら、ごめんなさい。私の誤解です。それに、許容範囲だとしても、抱え込まないでくださいね。
それに夢や目標、もしくは執着しているものがなければ死体なのかも。
社会に流されていようが自分の意思だろうが、充実感、満足感、幸福感、高揚感などを感じていると、それを維持したいから生きたいなのかも。
これを書いていてワンピースのニコ・ロビンを思い出した(『ONE PIECE』41巻 第398話)。夢や目的があれば、“生きたい”なのかも。
怒りは二次感情らしい。死にたいもおそらく二次感情で、何かから逃れたかったり、何かを得られない苦しさなのだと思っています。
もしかして、“生きたい”も何か継続したいものや欲するものがあるから、生きたいなのかも。