昔読んだ伊藤計劃さんの小説に『差別は文化』という言葉があった。
おそらくは、差別問題の根深さを表現したセリフだと思われる。
我が国においても、家父長制という文化(というか社会構造)が女性の自由な生き方を著しく阻害している事が指摘されて久しいし、『大和撫子』や『良妻賢母』という概念がいかに男側(あるいは体制側)にとって都合のいいものかについての啓発が徐々にではあるが進んでいるように思う。
卑近な例になるが、いわゆる現場仕事や介護職などのエッセンシャルワーカーを指して『ちゃんと勉強しないとあんな仕事にしか就けなくなるよ』と子どもを脅す親なんてのも、昔から今に至るまで当たり前に存在しているものだ。
そうした行為の是非は置いておくとして、これも我が国の文化であるのは疑いようがない。
なにせ明治時代は旧制高校を経て内務省などの官僚になれば民間企業の数十倍の生涯年収が確約されていたし、民間は民間で職員(いわゆる総合職男性社員)と職工(現場ワーカー)との待遇差は顕著だった。
おまけに職工は勤務時間外でも職員の身の回りの世話や子どものお守り、飯炊きや風呂焚きまで命じられるのが当たり前であったと聞く。
これはもう完全に身分差と言うしか無い。
『職工になるのが嫌なら勉強していい仕事に就けるようになればいいのに』と思われる方も多いだろうが、明治大正はある意味今以上に生まれ育ちによる勉強へのアクセス機会の格差は凄まじかっただろう。
農村などでは、小学校なんか行かずに畑を手伝えと叱られる子どもも多かったであろうことは想像に難くない。
冗長もいいところではあるが、そんな感じで『職業の違いは身分の違い』みたいな考えは、我々の文化であると言わざるを得ないのだと考える。
そうした時代を経験した人達が親となり祖父母となり、そういう価値観が脈々と受け継がれ『とにかく大卒』『とにかく公務員』『現場仕事は恥』『女の子に難しい勉強は不要』みたいな何となくの空気が現代に至るまで充満している
差別をなくそう。
価値観をアップデートしよう。
そうした声を否定するつもりは無いが、我々に『文化』を焼き尽くす覚悟が果たして本当にあるのだろうか?