今日は少し元気。
いいことはなかったけど、悪いこともなかった。
ちょっとしんどいけど、今までに比べたら全然楽。
だいぶ回復してきてる気がする。
嬉しい。
相談員さんと2回目の面談があった。
自分の身体と心を大切にしてあげてくださいって、何度も言われた。
あれは懇願に近かったかも……苦笑
だけど、よく分からないの。
自分を大切にするって難しい。
私にとって体力は、自分の行動を制限する邪魔なもの。
どうしたらこの認識を変えられるのか、自分でも分かんないよ…。
最近は、しんどい時と元気な時が交互に来るようになった。
希死念慮も浮かんだり消えたり。
繰り返してるうちに、少しずつ自分のことが客観的に見れるようになってきた。
元気な時は、疑問も持たずに生きてる。
苦しい思いをしたっていうことは覚えていても、しんどい時を思い出した時、その「苦しさ」に実体がない。
あたかも苦しい思いなんてしなかったみたいに綺麗に忘れて、生きているの。
しんどい時はその逆。
元気な時を思い出せない。
元気だったって記憶は確かにあるけど、記憶の中の「元気」は中身が空っぽ。
人生で一度も元気な時なんてなかったみたいに記憶が修正されてるの。
最近の私はこの二つの状態を行ったり来たりしてる。
その時の気分にここまで考え方が左右されてしまう私自身が、少し哀れに思う。
私だけがこんなに滑稽なのかな?
それとも、皆そうなのかな…?
どうなんだろう。
それで、話戻るんだけど、私、最近の死にたいって気持ちについて考えてたの。
そういえば不思議だなぁって思ったことがあって。
私、死にたいって思った時に、
どうして生きないといけないんだろう?
死んじゃ駄目な理由ってなんだろう?
って思ってたの。
同じことを考えてる人はいるんじゃないかなって思うんだけど…。
だけど、元気な時の私にその質問をしてみても、何も答えられない。
迷わず生きるっていう選択を取っているくせに、その理由が答えられないの。
その代わりに感じるのは、不快感。
うわ、こんな面倒な質問投げかけてくるなんてやってられないわー、みたいな。
死にたい私にとったら、こっちのほうが意味のわからない感覚なんだよね。
だけどもう少し、元気な私に質問を続けてみる。
じゃあ、死にたい自分に生きる理由を伝えるとしたら、なんて言う?
元気な私は、苦し紛れの答えを出すの。
死んだら周りの人が悲しむよ。
それに、死ぬのは痛いよ。
さらには、
生命が生きる理由なんて子孫繁栄のためなんだから、自分勝手な理由で死んじゃだめだよ、
なんて言う。
死にたい私は、その答えを聞いて思わず笑ってしまうの。
死ぬほうがマシだと思う程の苦しみを、たかが周りの涙のために堪えないといけないの?
それに、死ぬのが痛いなんて分かりきってる。
死にたいって言葉は、その痛みを乗り越えたいって意味も込められてるんだよ。
最後は、子孫繁栄??
私なんかの遺伝子なんて、途絶えるほうが世の為。
おかしいな。
何度試したって勝つのは死にたい私。
だけどそれじゃ、理由がつかない。
なんで人は生きてるの?
どうして社会では自殺が悲しいことだと捉えられてるの?
どうして私は死んじゃいけないの…?
この問いは、死にたいと思っていない今だからこそ冷静に考えられるもの。
同時に、死にたいって思いを覚えてる今だからこそ、考えられるもの。
つまり、この問いを考えられるのは今だけ。
今、私なりの答えを見つけられたら、もしこの先躓いたとしても立ち上がれるかもしれない。
だから、他の人の意見が聞きたい。
未熟な私一人では答えが出なかったから。
教えてくださいませんか。
皆さんは、なぜ生きているんですか。