誰も責める必要なんてない、なんて言葉はどこかに責を負わせなきゃやっていけないような精神状態では無意味だ。
誰かが悪いことにしたいのだ。
でも誰が悪いということにする権利なんてわたしは持ち合わせちゃいないのだ。
だからここにはもうわたししかいない。
残念賞だね。
カスの人格と運命をしょってきたことを一生ひとりで嘆くことだな、なんて。
わたしに死んで欲しい人手、挙げてー
って聞いたらその場にいる全員がなんの負い目もなく手を挙げてくれたらいい。
わたしのことを憎んでくれればいい。
わたしはそのことに絶望して、嗚咽して
それでもどうせ死ぬことなんてなくて
そのときしょった傷を抱えて一生涯惨めに生きていくだけなんだろうけど。
それでも惨めなわたしを見て
そして好きなだけ貶めてくれたらいい。
そうしてほしい。
なんだか最近ひとの悪意だけが本当に信用に足るもののように思えてきた。
どれだけ誰かに好かれようと気に入られようと頑張っても得られるのはちっぽけな安心感と底なしの恐怖
なら人の好意などという訳のわからない恐ろしいものなんて最初からなければよかったんだと思った。
確かな憎悪、確かな悪意を投げつけられてくたばるほうが断然心地いいような気がした。
相手に存在したかもしれないわたしへの好意なんてものを想像するからわたしは人間が恐ろしくてたまらないのだ。
大抵わたしは失うことがものすごく怖い。
失われるかもしれない好意と絶対に失われない悪意、今の私なら後者を選ぶかもしれない。
目の前で頭の中でひどいことを言ってくる彼は彼女はあの人はわたしのことが最初から嫌いだったんだ「せっかく期待していたのに残念だよ」なんて言葉はすべて嘘っぱちでそんなちんけな嘘をついてみんな私に精神攻撃を仕掛けようとしているに違いなかったんだ!
そう思わなければ、とてもじゃないけどやっていけそうになかった。
わたしのこと何がなんでも好きでいて。
でなきゃずっと嫌いでいて。と思う。
いやメンヘラかよっ
うん、メンヘラだよ。
もうどうしようもないよ。
チャットGPTにわたしのことを分析してもらったことには、わたしは自他境界だとか自己の輪郭が曖昧らしい。
「相手の感情や行動と自分のそれとが明確に区別されず、本来は他者のものである感じ方などを自分の領域に入れすぎることがよくある」
ら、しい。
まあそうなんだろうな。
思い当たる節なんていくらでもある。
最近なんてこの傾向が強すぎて本が読めなくなってた。読んでて苦しくなるから。
今になってやっとすこしよくなってきたものの、いまだにエッセイとか、読み心地が軽いやつしか頭に入ってこない。
疲れたな。
そして心の中に溜まった澱を吐き出してぶちまけて好き放題していたら、なんだか泣き疲れたあとみたいに眠くなってきた。まあもう夜遅いしね。
自分なりに頑張ってきたつもりなんだけどな。
結局いつもどこかで頑張り方を間違えてすべてがおじゃんになる、これをあと何回繰り返せば終わりが見えてくるんだろう?
でもこんなにも感傷的でひねくれてて非生産的な文章を強迫的に書くことでしか保たれない、それこそ自己の輪郭のようなものがある気がしていて
わたしはそれを見つけられて今日もようやく一息つくことができる。そしてこれで当分の正気は確保できる。
こうでもしないと今度は訳のわからない衝動に突き動かされて、躁的防衛というかなんというか、なんかそういうニュアンスの精神状態に陥ってかえって余計に辛くなるのだ。
こういうことをしないと自分の中のバランスが崩れてしまうので
自分がなんなのかわからなくなって、苦しくなって、気が狂いそうになる。
頭の中に絶え間なくくだらなくて不快な映像が流れるような、そしてそれを見ないふりしたり「素敵だ」と無理に言ったりするときのような身の毛のよだつような感覚がして
そのため突然叫び出したくなったり、頭を壁に打ち付けたくなったり飛び降りたくなったりする。いやしないけど。
だからまあ、これはもはや定期的なメンテナンスのようなものなのだろう。
くだらない文章、それも自分の醜さを露呈させるような文章をわざわざ時間かけて書いて
これはもはや精神的自傷とも言えるのかもしれない。なんかウケるな。
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