某ガルちゃんで読んだ、「コソコソ自傷なんてしても意味ないよ」というコメントにとても腹が立った
同時に『そうだけどそうじゃない』を地で行く文章だとも思った
本質から逸れるけど言い返さずにはいられない
じゃあ何か、衆目を集めてから事に及べば満足かと
八つ当たりすまいと1人で頑張った結果が自傷だったかもしれないのにと
自傷に至る経緯は人それぞれだ
背景を見もせずに外野が並べ立てるほど愚かしいこともない
もしかしたら、件のコメント主は、自傷をしたことがないのかもしれない
はたまた、経験があるけど悔いている人なのかもしれない
でも、それでも、親の無理解と自傷に苦しみつつ前を向こうとするスレ主にかけて良い言葉ではないと思う
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「正論は100回唱えても何も変わらない。正論で世の中は変わらないし、正論で人間は動かない。もしそうなら誰も苦労しない。正論のつまらなさは、正論でなぜ人が動かないかを理解しない無知と傲慢さにある」
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他山の石として、私もコメント主のような文言を吐かないように精進しよう
物事の捉え方を1つに限定するのはつまらないし、言葉の影響力を身を以て知っているからこそ見えるものもあるはずだ
ななしさん
>物事の捉え方を1つに限定するのはつまらない
いろいろな捉え方、考え方があっていいというなら、「コソコソ自傷なんてしても意味無い」という考え方も、「正論」という考え方も存在していいんじゃない?
Aさんにとっては傲慢でつまらない正論でも、Bさんにとっては目が覚めるような言葉かもしれない。「そうか、見えないとこでやっても仕方ないんだ。悩みはやっぱり表に出した方がわかってもらえるんだ!」て思えるかもしれないよね。
ガルちゃん主がどんな言葉に反応して、何に救われるかは主本人にしかわからない。
そもそも主は、様々な意見がくることはわかっていたはずだしね。ガルちゃんて結構容赦ない意見がバンバン載るもの。傷ついて慰めて欲しい、気持ちをわかって欲しいだけの主なら、宛メみたいなサイトとか、自傷に悩む人が集まるブログとか、そういうとこに書き込んだんじゃない?
自分は周りからどんな風に見えているのか、遠慮しない本音の意見が欲しいから、その主はガルちゃんに行ったんじゃないかな。
誰かがかけた言葉に対して、本人以外が「それは無理解だ。かけてはいけない言葉」て糾弾するのは、ああいう場所で主が忌憚ない意見を募った意味がなくなると思う。
「いろいろな捉え方があっていい(ただし自分の理解の範囲内)」ていうのは、ちょっと違うと思った。
…これも正論になるかなあ。ごめんね。
ななしさん
自傷に苦しんでる人です。まずはそのコメント主さんを労った視点を持った貴方に感謝を。
私の場合、自傷は強迫性を持ってやっていて、意味が無いことも良くないことも理解してるんですが、やめなよ、とか意味ないとか面と向かってよく言われます。
では、代替案を提示できるのかと言えば彼らは出せないわけですから本末転倒ですね。
以前こんな話を聞いた事があります。
我々は心に自分だけの色のついた眼鏡を付けている。
その心の眼鏡を通してしか物事を推し量ろうとしない。
そのコメント主さんはまさにこの状態だったのかもしれませんね。
貴方の瓶を見て、私も「心の眼鏡」を外して、相手を労ったコメントを心がけたいと思いました。
朝からいい小瓶を拾わせてくれてありがとうございます。