人や物の名前、出来事の名称とか、その存在や事象を表すためのもの。喜びも怒りも悲しみも、喜びや怒りや悲しみという名前を持っている。それって幼いころの私には、不思議な、不可解なことだった。
言葉の意味を捉えることはできても、自分の口から音になって出ていくと、とたんにおかしなもののように思えた。
なぜなら、私の感覚は体感が全て。五感が働いて、時に命を持った喜びを、時に生きている悲しみを味わうが、それらは全て体感によるものだ。
喜びはくすぐられるようなゾワゾワ感。いい匂い。温かさと、すきま風。ぼやけていて、明るすぎない、明るい光。
悲しみはもったりしたもののなかに沈んでいくみたいな、遠く上の方に唯一ある出口に、蓋をされるような息苦しさ。
なんて書いてみてるけど、やっぱり言葉にしてしまうと体感とは乖離する。
誰が、どこで、何をして、何を考えて、何を使って、何を言って、それゆえにどうなったのか。それを受けて私に、どんな影響があったか。私はそれを受けてどうやって考え、どう行動していくか。
現実社会を生きる私には、私にはそれらを理解することが重要で、同時にとても難しいこと。なぜなら、思考には言語が必要だから。
社会に生きるためには、人とコミュニケーションが必要で、コミュニケーションには対話が必要で、対話には言語が必要だから。
聞かれたことに答えること、問われたことへの答を考えること、自分の周囲の現状を理解することに言葉は不可欠だ。
でも私の根源は体感でしかない。
においで判断し、色で決めて、明暗に一喜一憂し、それだけで心をいっぱいにして生きていたい。
現実の社会は、言葉は、私にはとても難しい。私が私であるための体感さえ鈍らせる。鈍麻していく。誕生日を迎えるごとに、私は麻痺していく気がする。
ななしさん
(小瓶主)
お返事ありがとうございました。
感情と感覚が連動していること自体は、多くの人がそうであるようで、特別感は正直薄いのですが、良いね。といっていただけることをとても嬉しく思いました。
そして、あなたがもし、言葉を並べて、それを人に主張できるのなら、普通に言葉で人と会話することができるのなら、わたしにはそのほうが、それだけで凄いことだなと思います。
感覚だけでは他者と考えを共有できません。言語によって理解できなければ、すり合わせることもできません。
自分で考え、自分の主張をしなければならない場面において、やはり言葉を並べられる、羨ましい!を言える、その言語能力こそが、人間としての武器であり盾だと思うのです。
会って話してみたい、ということで、私の感覚にもっと触りたい?興味があるのかな?と想像しています。そしてそれを、とても光栄なことと思っています。
そして今、もしかしたらこの文章を垣間見ている人たちには、そうは言ってもこの文章を書いている時点で日本語使えてるじゃん。と思われているかもしれないと想像したりもしています。
会って話せるような素敵な機会があったなら、あなたはきっと驚かれると思います。
私は、あなたからかけられた言葉、自分が話した言葉、共に過ごした時間に交わしたものを、それを受けて、ふまえて、どう答えればいいのか。何を感じたか。それをお返しできるまでに、例えば数時間後、一日後、物によっては何年もかけます。一度言ったことを、時に何度も修正をします。あの時ああ言ったけど実は違った、と言います。
時に相手が忘れても、私は考え続けているということもありました。
対面での会話も尊い時間ですが、現状難しいでしょう。ですがこのような話で、あなたの友好的な見方に報いることができていたらなと思い、願っています。
見てくれて、お返事を書いてくれて、ありがとうございました。