精神的な幼さが抜けず情けなくて恥ずかしい。
その反面、幼いという価値観は普通に社会に参加していける人の尺度で培われてきた物なのに、そこに当てはめられるのは理不尽だとも感じる。
些細なことに傷ついたり、過度な反応をしてしまう。ちょっとしたミスを指摘されただけでも人格を全否定されたようなショックを受けてしまう。
誰かに分かりやすく認められないとずっと不安で自分のやることなすこと全てが間違っているのではないかといつも不安になるし、人に褒められたくて仕方がない。
いい大人になっても、先生やお母さんに褒められたい!という感じの気持ちが抜けず情けなくて恥ずかしい。
ずっと誰かの庇護を受けていたいし、頑張ったことは全て褒められたいし、間違った時は優しく諭して欲しいと望んでしまう。
誰しも多かれ少なかれ感じることではあると思うけど、自分はそれが強すぎるように感じる。
大体の人はこういう気持ちを子供の頃から段階的に少しずつ手放したり、飼い慣らす方法を身につけて行ってるように見える。
自分には未だにそれができていないことが情けなくて恥ずかしい。
さすがに人と接する時はなるべくそういう気持ちを外に出さないように気をつけているけど、家に帰るとどっと疲れるし、こんな思いをするならなるべく人と関わりたくないと思う。
その反面で幼さという尺度自体、子供の頃に承認欲求を満たしてもらって普通に社会と関われる人が培ってきたものではないのか?
その尺度を子供の頃に承認欲求を満たしてもらえなかった人に当てはめるのは理不尽では?とも思ってしまう。
自分の親に対しても子供時代に蔑ろにされたことを恨む気持ちと、当時の親の状況では自分のことで精一杯で子供の事まで手が回らなかったんだろうと思うし、そういう状況下でもできる範囲で大事にしてきてくれたことへの感謝の気持ちもある。
だけどそれでも、なんでずっとこんな苦しい気持ちで生きていかなきゃいけないのかと途方もない気持ちになる。
本当に残念だけど、社会の時間の流れや感度についていけない。
周りの人がどれだけ優しくても、その人たちの普通に合わせて生きていると苦しくなるし疲れる。
優しくされても、「気を使わせてそういうことを言わせてしまった」や「腫れ物として扱われている」という疑念から、優しさをまっすぐ受け取れない申し訳なさを感じる。そしてその態度がより人に気を遣わせる。
マイペースで気分屋だから、社会に合わせてシャキシャキ動いたり、″ほどほどに頑張る″程度の結果を永続的に出し続けることが困難で、がんばればギリギリできるけど疲れ果ててしまう。
なので疲れてしまった!!もういやだな。
みんなも頑張って生きてるとは思うんだけど、
たまになんでそんな前向きで楽観的で無自覚に自分が人生の主人公!みたいな顔で生きていけんのかな?と他人を妬んで恨み、馬鹿にしてしまう。
本当に幼稚で嫌になる。気にしないようにしてもずっとこの考えが頭の中でぐるぐる駆け巡っていて苦しい。
最近は死にたいと思うよりも殺してくれ〜と思うことが増えた。殺してくれ〜。
本当は全然死にたくないし普通に助けてもらいたい。でも助けてもらう体力ももう無い。
名前のない小瓶
121543通目の宛名のないメール
お返事が届いています
ななしさん
(小瓶主)
1通目の小瓶さんへ
おすすめの本ありがとうございます!
確かに、私のこの心動きは別に恥ずべきことでもなく普通の自然の摂理なのかもしれないですね。しかしやはりどうしてもひねくれた私の頭では「そんな自然な感情にいちいち引っかかって恥ずかしい!情けない!」と批判してくる人が出てくるのです。
それが誰かはわかりません。社会や親、カッコつけた自分自身。あるいは本当に尊敬している人が私のことに大いに呆れてるのかも…とかどうしょうもない被害妄想に駆られてより一層自分を萎縮させダメな坂を下っていくのです。
ダメの坂の底に着く前に読んで見たいとおまいます。
ななしさん
(小瓶主)
二番目の小瓶さんへ
私と一緒ですね!嬉しい。
頭ではそんな大したことないと分かってても注意されるという場面自体が恐ろしくて恥ずかしくて気持ちがめちゃめちゃになりますよね。
家まで我慢できたなんてえらい…すごいですよほんと。私なら帰り道で泣きながらアイス食べます。
社会に出ると確かに今までより辛いかもしれませんが、冷静になって周りをよく見ると年齢性別関係なく「こいつ大丈夫か?」と思うような人も案外普通に会社に馴染んでいたりします。社会は思っているよりも懐が深いのかもしれないけど、その深さでさえ無理だわと思ってしまうのが辛いところですよね。
おんなじ気持ちだって言ってもらえて嬉しかったです。ほっとしました。
ななしさん
(小瓶主)
三通目の小瓶さんへ。
いやもう本当に辛いですよね。あんだけ真面目で優しい優等生だねって評価してもらってたのにいきなり梯子外されてどないせいっちゅうねん…という気持ちと、みんなはその間に周りを見てなんとなくうまくやる術を身につけてたんだなという羨望とやっかみでどうにかなりそうです。
でも、どないせいっちゅうねーーーーんって暴れること(比喩として)が許される社会になって欲しいんですよ。個人的には。
発達傾向があってもなくても、人間何もかも嫌になる事なんてザラにあるだろうし、もっと感情が乗るのが許される社会になってくれないかなとぼんやり思っています。(納得いくまで暴れた方が禍根は残りづらく、結果多くの人の求めるところの生産性というものが上がるから)
やりたくない日はやらないとか、雨が降ったらお休みとか。
実際にやると大顰蹙買うから限りなくマイルドにやってますが雨の日はゆっくり出社するとか。昼休みはギリギリまでおやつ食べてるとか。なんかそういうしょうもないところで自分の中の情けなくて幼い自分に満足してもらうように最近は勤めています。
大分恥ずかしいけど、一回子供のように泣いたりやだやだやだやだばーかばーかうんちとか唱えると案外溜飲が下ることがあるので、なんかもうかっこいい大人でい続けるのは諦めて調整してます。そしてそのあと幼い自分に対して大人の自分の目で諭しています。
ださいし人としてどうかと思われるかもしれないけど、そうでもしないと生きていけないし真面目に生きるにはこの世はふざけすぎてるように思えてきてしまいました。
子供のころはふざけた大人が大嫌いでしたが、彼彼女らは悲しいピエロだったんだなぁと感慨深く、私もまたピエロになりつつあります。ピエロは去り際が重要だから、面白おかしくパッと消えたいと思う所存です。
名前のない小瓶
自分が書いたかと思うくらい共感できました。
社会人になってもう随分経ちますが、ずっとそんな感じです。
褒められたいし、護られたいし、認められたい。
でも人の優しさを素直に受け止められない。
私も毎日疲れてます。
私の場合学生の頃はいわゆる優等生タイプで、努力する姿を見せれば先生たちにたくさん褒めてもらえることが分かっていて、そのためにに努力していたようなところがあります。
当然社会人になったら努力より結果が求めれるわけで、発達障害傾向のある私は何をやってもミスばかりするし、努力しても方向性を間違えるしで、最終的には自己評価も周りからの評価も地の底に。
認められたい欲求だけ人一倍あるのに現実は真逆で、本当にしんどいです。
周りの評価なんて気にせずできることをやりなよ、とか言われますが、子供の頃から褒められることで自分の価値を確かめてきた身としては、簡単に消せる欲求ではないです。
みんな何であんなに普通に器用に生きられるんだろう?
同年代の人たちがものすごく大人に見えて自分が情けなくなります。
急にパタッと消えられないかなーと思ったりします。
小瓶主さんが頑張って生きてきて、今疲れてしまった気持ちよく分かります。
ななしさん
私も、自分を常に肯定してもらえないとすぐに不安になります。ちょっと否定するような言葉を言われただけで、無力感を感じてしまいます。本当に小瓶主さんのお気持ちわかります。
今日、バイト先の先輩から、本当にちょっと注意されました。別に怒られたわけではないのに、それだけで涙が溢れてきそうで、自分が全部ダメな人間に思えて、自分の行いが恥ずかしくなりました。バイト先ではなんとか我慢して、家に帰ってから泣きました。
私はまだ社会に出ていないですが、社会に出て働き始めてから、今以上に辛い思いをするんだと思うと本当に不安で、怖いです。
自分とおんなじだ!と思ったので送らせていただきました。突然すみません。
ななしさん
お話の内容に共感しました。
私もあなたと同じでしたが、エレイン・アーロン博士の『ささいなことにもすぐに動揺するあなたへ』という本を読み、Highly sensitive personという考え方を知ったことで、だいぶ楽になりました。
あなたは決して幼いわけではなく、特別に繊細で敏感な人なのだと思います。
同じような家庭環境でも、ほとんど気にしない子もいれば、繊細さゆえに多くのことを気にしてしまう子もいます。
当時のやるせない子ども心が、今現在の不安な気持ち、自分の存在を認めてほしいという思いに繋がっているのではないでしょうか。
それは自然な感情で、恥ずかしいことではないと思います。
親御さんに恨めしい気持ちはあっても、理解や感謝もされているので、未熟どころか、精神的に大人の方なのだと思いました。
以下はまだお返事がない小瓶です。
お返事をしていただけると小瓶主さんはとてもうれしいと思います。