僕の投稿履歴を見れば、過去の僕も死にたい、消えてしまいたいと思っていたことが分かると思います。
しかし、今の僕にその思いはありません。特別なことをしたわけでも、環境の変化があったわけでもありません。
なので、「成功してるやつの言葉なんて何の慰めにもならない」なんて思わなくていいです。まだ引きこもりニート継続中です。
ちょっとした価値観の変化程度ですが、その小さな変化はやがて大きく得難いものになると信じています。では実体験から僕が感じたことを綴らせていただきます。
引きこもり生活のある日、少し遠出したいと思い立ちました。目的地は40km強の隣の市にある有名な温泉です。
免許も持ってないし、交通機関はお金かかるし、楽して行っても達成感がないという理由で、高低差200mの山道を自転車で抜けるルートを選びました。
数年間運動はおろかちょっとした外出も数えるほどで少し走っただけでも息が上がり、食事も1日1,2回くらいで全身の筋力はかなり落ち、細すぎると言われるくらいの情けない体。
今回選んだ山道を何度も車で走行したことのある母に、自転車で抜けられるか聞いたら笑いながら「無理無理!」と言われるような道。
マウンテンバイクなんて立派なものはなく、乗った父が「ペダルが重すぎる」と評価した愛車のママチャリでのトライ。
普段はやる前から無理だと決めつけて行動を起こさない、諦めの速さには定評のある僕がなぜか客観的に見て無謀なチャレンジを前向きに計画していました。今思えば、こういう一見バカだと思うような行動が何かを変えるために必要なものだと改めて感じました。
計画当日、なぜかいつもよりペダルが重く感じられ、山道に入る前のちょっとした坂ですでに汗だく。距離にして4kmしか進んでいない地点でこのチャレンジが厳しいものであることをようやく悟りました。
いよいよ山道へ。自転車での走行は早々に断念し、自転車を押しながら急こう配を歩いていきます。急こう配は最初の方だけで、序盤を乗り切ればあとは下りがほとんどだということは調べがついていました。それを励みにしながら一歩一歩確実に足を進めます。
押して歩くだけならしんどいけど危険はない、ということはなく、道の端から伸びた植物によって車道に入って進まなければならない道が多発。見渡しの悪い山道にもかかわらず、多くの車がぶつかれば肉塊確定のスピードで飛ばしていくので車が来ていないか何度も確認しながら車道を歩いていきます。
僕が車を運転している側なら、間違いなく邪魔だなと思う存在であることを自覚しながら、申し訳なさを噛みしめること1時間半。やっと急こう配を抜けることに成功しました。
最初で最後の難関を乗り切った。こんな自分もやればできるんだと自信に浸っていたのもこの時まで。これが大きな勘違いであることをこの後知ることになります。
通常、自転車を乗っていれば下り坂は基本的に勝手に進んでくれるありがたいものという認識をしている方もいるのではないでしょうか。
ここが山道でなければその認識も間違いではないでしょう。しかし、この山道の下り坂は想定を超えてスピードが出てしまう斜面でした。すぐにブレーキで制御不可能な速度に上がってしまうのです。
もちろんタイヤが完全に止まらない程度のブレーキをかけながら下っているのに、スピードは上昇の一途を辿ります。問題はそれだけではありません。
小石からビー玉ほどのサイズの木の実が壁に沿う形で絨毯のごとく転がっていました。当然、車道に出れば車に撥ねられるのでその上を通るしかない上に、たまにペットボトルが捨てられている場所もありました。
下り坂にあるトンネルも危険な場所でした。業者が点検のために通るような手すりのない歩道を通るしかなく、水漏れで地面がところどころぬかるんでいます。
直進2km強のトンネルなので車のスピードも上がっており、巨大な車両が横を通過した後、強烈な向かい風と追い風に見舞われ、体勢を崩しそうになります。壁に体を押し当てて無理やり速度を落とさなければ制御不能になって死んでいたかもしれません。
悪路、制御困難なスピード、前後からの突風、肩幅ほどの歩道という最悪の条件の中、少しでもハンドルを切り損ね、車道に放り出されれば痛みを感じることなくこの世をされる速度で横を通過する車。
全神経を研ぎ澄まし、必ず生きてここを抜けると覚悟を決めました。大げさではなく5割の確率で死んでもおかしくないと直感していました。
無事に下り坂を下り終えて、生きていることを実感しました。あれだけ死にたい、消えてなくなりたいと思っていたはずなのに、生きることを強く望んでいました。死にたくないと思っていました。
僕は死にたいと思っていましたが、本当に死ぬかもしれない時間を過ごし、分かりました。楽になりたい。肩の力を抜いて生きていたい。それが本当の気持ちだったのです。
死んでしまいたいほど苦しい状況にあると、死んで終わらせることしかないと思うようになってしまいます。ですが、死んでしまえば幸せになることはありません。
目的の温泉にたどり着き、温かいお風呂に入って体を労わり、有名なご当地グルメを食べて腹を満たし、幸せだと心から感じました。
結婚、出産、人望、収入、昇格、色んな幸せがあると思いますが、その幸せ、本当に必要でしょうか?大きな幸せを得ている人と比べて、自分は何て不幸なんだと、自分を情けない奴だと思っていませんか?
人が当たり前にやっている、食事、入浴で、僕は生を実感することができました。僕がこの人生を見限って自殺していれば、こんな身近に手に入る幸せに気づかなかった。当たり前だと思っていることがこれほど幸せだと思えるんです。
それがニートを脱却することに何ら関与してなくて構いません。それが明日から就活できるような活力を起こさせるような出来事でなくても構いません。
客観的に見て不幸でもいいんです。何を幸せとするかは人それぞれ。あなたが幸せと感じていれば、生きようと思えれば、現状が酷かろうと問題ないのです。
極端な話、どれだけお金を得ようとも、どれだけお腹を満たしても、もっと得たい、もっと満たしたいと感じる人はいます。その人はいつになれば満足するのでしょうか?子どもが五体満足で生まれたらそれでいいと言っておきながら、良い成績、良い学歴、良い就職先を子どもに求めてしまう親がいるでしょう。それと同様に、人は自分が今持っているものがどれほど尊いものなのか気づかないのです。
死にたいと苦しんでいる人は、他人が何も感じないような出来事でも幸せを感じられる環境にあるということでもあります。難しいことは何もしなくていいのです。一人で家に籠って悩んでも絶対にいい考えは浮かびません。外に出て、気がまぎれて少しの間死ぬことを考えない時間を自分にあげましょう。そういうとき、自分が何を考えるのか、死ぬことしか考えてないときと比べて変化が起こるはずです。
僕の話を聞いて何か感じていただけたら、何でもいいので外の世界を覗いてみてください。
冗長な駄文大変失礼しました。一緒に、笑ってこの世を去れる生き方を探していきましょう。
127039通目の宛名のないメール
お返事が届いています
ななしさん
文豪ニートで素敵です。
明治大正の作家とかって、裕福な家庭で気ままに文学に取り組んでたイメージ。まさにそのまま。
私も丸2年ニート、3年目。状況はだんだんと悪くなる。最初は外に出て趣味の習い事や短期のアルバイトもできた。ここ最近はほんとに引きこもりで、お風呂も面倒。親とも仲悪くなってきた。自業自得だ。
実家が嫌いで、そこに戻ってきてしまった自分が存在していることが許せないきらいがある。一人暮らししたいのに仕事したくないからできない、鬱々。
現状を打破したいけどできない。お先真っ暗よ。
ななしさん
小瓶を流してくださって、ありがとうございました。
感動しました。
外で思い切って冒険して、本当に死ぬかもしれない経験をしたからこそ、死にたくないと思えたんですね。
行動したから、生きている実感を得られたんですね。
「結婚、出産、人望、収入、昇格、色んな幸せがあると思いますが、その幸せ、本当に必要でしょうか?」という言葉に共感しました。
幸せな人とは、ささやかな楽しみをたくさん見つけられる人のことだと思います。
ななしさん
ありがとう
以下はまだお返事がない小瓶です。
お返事をしていただけると小瓶主さんはとてもうれしいと思います。