世界中で人気の某ボディワークのトレーニングのため、アメリカに行ってきました。
この道のカリスマ・トレーナーのレッスンを受け、夕食会では関係者と色々なお話が出来て、とても楽しかった。
カリスマ・トレーナーは亡命経験者で、生まれた国で立ち上げたスタジオを断腸の思いで故国に残し、身一つでアメリカに渡ったそう。
それから30年、アメリカで子どもから高齢者までを指導した経験を持つ。
その経験から得られた教訓の一つが、
「人間のことばかり考えている子は伸びない。
ヒトよりコトに集中できる子はどんどん伸びるし、幸せに生きられる」
だそうです。
アメリカでは、子どもの肥満が社会問題になっています。
そこで、彼が指導しているボディワークを
「子どもの運動習慣として取り入れてはどうか」
と、ある州の保健関連団体から打診を受け、引き受けた。
子ども対象のトレーニングコースを開講して10年ほど教えてみて、子どものタイプが二つに大別できることに気付いたそう。
一つは、常に人のことを気にするタイプ。
誰が自分と同じチームにいるか
誰と誰が仲良しか
自分はこのチームでどの程度の位置にいるのか
先生は私よりあの子が気に入ってるんじゃないか
先生はいつもあの子を特別扱いしているように思う…etc.etc.
という雑念優先で、トレーニングをおろそかにするタイプ。
もう一つは、これと正反対のタイプ。
上述のようなヒトをめぐる問題に関心がなく、トレーニングそのものに無心に集中するタイプ。
後者のタイプの方が、習得も上達も早いのは当たり前ですよね…。
誰だって、限られた体力と時間しか持っていない。
所謂「選択と集中」で、ヒトのことにエネルギーを使うのをやめて、トレーニングに選択的にエネルギーを注げば、いい結果を出しやすい。
「そこまでは分かりますが、それと『幸せに生きる』こととの関係や如何に」
と、日本から同行していた私の先輩が質問しました。
カリスマ・トレーナー曰く、
「実力をつければ、自分を必要とする人たちのためにできることが増える。
自分のできることを核に据えて、その周りに自分の居場所を築いていける。
居場所を確保できれば心身が安定して幸せを感じやすくなり、人の善意や親切を受け止めやすくなる。
幸せに生きるとは、この循環が成立している状態のことだ」
これを聞いて、先輩、腑に落ちないところがあったらしく、更に質問。
「だけど、自分の周りにいる人達が、必ずしも100%信用できるわけじゃないですよね?
特に、あなたのように著名なトレーナーになると、あなたの名声を利用するつもりとか、
あなたのスキルを盗むつもりで、表向き笑顔で近づいてくる人も多いでしょう」
先輩は、国内ではかなり名を知られたトレーナーさんです。
実際、SNSなどでも、先輩のフォロワーの多さに便乗して、コメント欄に自分のビジネスの宣伝を書き込む人間なんかもいたりします。
日本でレッスン中は、いつも静かなほほえみを浮かべている先輩。
やっぱり苦しんでたんだな…と、心臓と胃が痛くなりました。
こういう悩みは、自分の上位者にしか相談できません。
先輩の役に立てずにいた自分が哀しい。
ともあれ、カリスマ・トレーナーは、言いました。
「まず、大前提として、世界に一人として100%信用できる人間は存在しない。
私は故国において、家族の手引きで危ない目に遭い、最終的に亡命という方法を選択せざるを得なかった。
だから、家族こそが絶対的に信頼できる存在という家族美化主義には反吐が出るし、誰でもいつでも裏切者になり得るということを、腹の底から理解している。
だが、『人間が信用ならないという事実』は、『自分が幸せに生きられない理由』にはならない。
そこには、なんら必然的な因果関係がないからだ。
1.人間は誰も信用できない。
2.信用できる人がいることが、自分の幸せの欠かせない条件である。
3.従って、誰も信用できない世界では、自分は幸せになれない。
2の部分が君の価値観だとして、私はそこが違う。
1.人間は誰も信用できない。
2.信用できる人がいるかいないかは、自分が幸せになれるかどうかとは関係ない。
3.従って、誰も信用できない世界でも、自分が幸せになると決めれば幸せでいられる。
私は、亡命後、アメリカで高等教育を受けた。
色々教わった中で、
『あなたの同意なしに、誰もあなたに劣等感を抱かせることはできない』
というエレノア・ルーズベルトの言葉をよく覚えている。
劣等感に限らず、君を不幸にさせようとするシニシズムや露悪趣味、それを吹き込もうとする人物は、常に周りにあふれている。
だが、それに同意して彼らの操り人形になるかどうかは、君が決めることだ。
『信用できる人間がいないことは不幸だ』と誰かが言い出したとして、なぜそれに唯々諾々として従うのかね。
同意しない選択だって可能だろう。
その『誰か』が、仮に自分自身だったとしても、だ。
信用できる人間がいないことで、自分が不幸にならずに済む方法。
それは、100%信用できる誰かと出会うことではない。
人間を信用できようができまいが、それは自分の幸不幸と関係ないと決め、自分が決めたことを生き切ることなんだよ。
100%信用できる人間という想像上の産物が、都合よく自分の目の前に現れてくれるかどうか。
そのような自分でコントロールできないことに、自分の幸不幸の決定権を預けるという主体性のない生き方をしている限り、幸せに生きることは不可能だ」
7年ぶりの訪米でしたが、今回も大収穫でした。
学生時代にも思ったことですが、向こうの先生は、相手を子ども扱いしないで、真剣勝負の議論に何時間でも付き合って下さる方が結構いるんですよね。
軽くあしらわずに真面目に聞いてくれただけでも救われるし、自分の考えを一生懸命話してくれたことにも感動しました。
先輩が、アメリカに行くことをいつも楽しみにしている理由が、なんとなく分かった気がします。
「無知からくる無邪気と、全て知り尽くした上での無邪気って、全然違うよね…」
帰りの飛行機で、眠そうにしながら、ぼそっと先輩が呟いていました。