ガーデンデザイナーの友だちが、仕事でメルボルンに滞在している。
詳細は省くが、彼は、いわゆる教育虐待サバイバーだ。
その後遺症なのか、知り合ったころは疑心暗鬼の塊だった。
当時の僕の居住地では、彼はガーデンデザイン分野の実績でよく知られた人物だった。
表向きは、極めて人当たりがよく、付き合いやすい。
ところが、ひょんなことから、これが彼の世渡りのための仮面に過ぎないことが分かった。
正体がバレてからの彼の僕に対する態度と来たら、それはそれは酷いものだった。
僕があっさり受け入れている物事について、彼流の穿った見方をすればどんな風に悪く解釈できるか。
それを、ことあるごとに僕に吹き込む。
正直、なんてメンドクサイ奴なんだと思っていた。
その彼が、少し軽やかになってきた。
どうしたのかと思ったら、本業の傍ら、自作の銅版画作品をネットショップで売っているという。
そこで受け取る購入者からの「純度100%の善意」が嬉しいそうだ。
「ペンネームで運営しているから、購入者から見れば、僕は無名の銅版画作家なわけで」
メルボルンで会ったとき、彼は嬉々として言った。
「『知人だから、友人だから、ひとまず優しい嘘をついておこう』という忖度が、ここでは働かない。
本名で運営していれば、
『著名なガーデンデザイナーだから、一応ヨイショしておかなくちゃ』
みたいな計算が働くこともある。
忖度が絡むコミュニケーションでは、相手の言葉を8割くらいディスカウントしなくちゃならない。
どこの馬の骨か分からない別人の名前で商売をしていれば、そんな懸念は無用だ。
購買者は赤の他人だから、作品画像を見て、
A. この作品は気に入らない。となれば誰も見向きもしない。
B. 知らない作家だけど作品は気に入った。となれば、よし買おう!
この二択しかないんだ。シンプル極まりないコミュニケーション。
ここには、嘘が入ってくる余地が全くない。
しかも、人によってはレビューまで書いてくれる」
彼は、パソコンを操作してレビュー欄を見せてくれた。
オープン間もないのに、好意的なレビューがかなりの数ついている。
「本物の善意というものは、多分、僕が思っているよりも遥かに多く存在するのだろうけど、何しろ『本物の善意』と『みせかけの善意』を確実に判別する方法がないだろう?
だから、全ての善意が疑いの対象になる。疑うことが自分の気持ちに影を落とすことが分かっていても。
頭が勝手に疑う方向に動くから、自分でもどうしようもない。
ところが、こうして、『みせかけの善意』をわざわざ伝える必要がない場所を作れば、疑う必要のない善意だけが集まる。
みせかけの善意を伝えるために、この金額を払おうとする酔狂な人間なんて、まずいないだろうからね。
僕ね、このお店のことは、君以外、知り合いには絶対に教えないよ。
そうすれば、ここはずっと、僕にとって真実安心できる、嘘のない信頼度満点の聖地になるから」
彼との関りの中で、僕は常々、あの「不信の地獄」から彼を出してやれたらどんなにいいだろうと考えていた。
だが哀しいかな、僕が人間である以上、それは不可能なことだった。
なぜなら、僕自身、条件次第では彼を裏切らなくてはならないから。
例えば、彼に恨みを抱く人物が僕の妹を誘拐して、
「奴の自宅住所を教えろ。それと引き換えに妹を開放する」
と脅して来たら、僕は確実にその人物の要求を呑むだろう。
その結果、彼の身に危険が及ぶことが十分に予見できるとしても。
彼から見れば、僕の行為はまぎれもなく裏切りになる。
役者が入れ替わっても同じことだ。
僕の立場に置かれれば、彼もまた僕を裏切るだろう。
僕はそのことを知っているし、お互い人間である以上、
仕方がないと受け入れている。
僕が基本、彼に限らず、誰の裏切りであろうと
本人を責めない方針なのは、そのためだ。
人間が誰かを裏切らずにいられるのは、そうせざるを得ない事情が起こらなかった幸運な場合だけだ。
それが起こる前に自分の寿命が来れば、
「僕は一生、あいつを裏切らなかった」
と言える。
不信の地獄から出してやりたい。
その気持ちに偽りはなくても、
「僕を信じていい」
という言葉は、言った瞬間に嘘になる。
そして、彼をさらに救いがたい不信の地獄に陥れることになる。
ならせめて、出来ない約束をしないこと。
それが、僕になしうることの上限だ。
それが悔しくて、長年の間、忸怩たる思いを抱えていた。
だが、結局、彼は彼自身の力で、不信の地獄から解放される方法を見つけた。
そもそもは、彼のクライアントの一人が銅版画を趣味にしており、彼にもやってみたらと勧めたことがきっかけだったらしい。
僕は、会ったこともないそのクライアントに、胸の中で深く感謝した。
助けたいと思っている僕ではなく
何も知らず何も意識していない誰かが取った行動が
めぐりめぐって誰かの助けになる。
この仕組みこそが、この世界を緩やかに包む慈悲の姿なのだろう。