以前、講師として静岡の研修施設に出向いたときのこと。
会場でその会社の上層部の方とばったり会い、何かの拍子に、
「その頃は希望に満ちていたんだろうに」
とその上役が口にした。
何の話をしていたのだったか。
僕がしがない行商人になる前の話か?
経緯をよく覚えていないのだが、ともあれ僕は、
「今も希望に満ちていますけど?」
(翻訳:貴殿と一緒にしないでいただきたい)
と答えた。
同病相哀れむ病の沼に僕を引きずり込もうという目論見を鼻先でバキッと折られた上役。
つまらなそうな顔をして、その場を立ち去った。
ちなみに、同病相憐れむ病の罹患患者に遭遇する確率、日本にいるときがダントツ高い。
僕は天邪鬼なので、誰かからこういうことを言われると、実態がどうあれ真逆のことを言いたくなる。
ただ、この言葉に対してだけは、答えは常に、
「今だって、昔だって、これからだって、いつだって希望に満ちていますけど?」
だ。
そう答えることが自分に対するプライドだし、自分の美意識に適っているからだ。
持てる者、持たざる者という言葉がある。
自分で自分を持たざる者と見做し始めたときから、人間は卑しくなる。
卑しさは卑しさを呼ぶ。徐々に卑しさに侵食される。
それが嫌だから、意地でも自分を持てる者と見做す。
そして、そう見做すことが、自分が実際どれほど多くのものを持っているかに、改めて目を向ける機会にもなる。