ふと思い出して宛メにふらっとやってきたら、
ここは私が小瓶を沢山流していた頃と
変わらない姿でそこにあって、懐かしくなった。
初めて出会ったのは三、四年前になるのかな。
あの頃の私は、思春期という言葉で片付けてしまえば
それまでなのだけれど、それだけの言葉にはしたくないくらい
色々なものを抱えすぎていて、
心の中が、文字通り、いっぱいいっぱいで、
小瓶を流すことが心のデトックスだった。
とはいえ、つらい思いばかり流してたわけじゃない。
嬉しかったこととか、決意だとか、前向きな小瓶も流していたし、
悩みだけを吐き出す場として、小瓶をネットの海に漂わせたのではなかった。
ただ、哀しいことも嬉しいことも、ぜんぶ、
自分自身で見つめて、自分で文字に紡いで、
いま、自分はこんな風に感じて生きているんだっていう実感を
形にしてゆくために、私は書いていた。
そして、小瓶は知らないうちにどこかへ流れ着いていて。
当時も、色々な人から、色々な形のお返事が返ってきて、
それが私の糧になっていた。
しばらく宛メに来てなかったのは、きっと、
糧を周りからたくさんもらえて、
心身ともに健康になって、笑えるようになったから。
でも、私が宛メに頼らないでも生きていけるようになってからも、
かつて私が流した小瓶は、たまに浮上しているらしく。
色々な小瓶を流したけれど、その中でも、
特に沢山の人に拾われたものがひとつだけある。
もっとも、私が流した当時はまだ、
拾った人数はわからない仕組みだったから、
今回、あらためて、自分が流した小瓶を
探してみて、人数を見て驚いたんだけど。
他の小瓶は、これまでに100人〜200人の人が拾ってくれていて、
お返事もひとケタ〜多くて十数人。
そのお返事も、当時のわたしが読んだことがあるもので、
新しいものは見当たらなかった。
でも、その小瓶は、私が知らないところでたまにぷかぷか浮上していたらしく、
今では1000人を超える人が拾ってくれていて、
不定期に届いていたらしい共感や励ましのお返事が沢山あった。
私が読んだことのある当時のお返事と合わせると30人を超えていた。
それがどんなものか、ここには書かないけれど、
文章の書き方のクセとか、今書かれている条件だけで、
拾ってくれたことのある人はわかるかな。
自慢するつもりはない。
拾ってくれた人数やお返事の人数が全てではないし、
なんのお返事が無かった宛メにも、意味はあるから。
それでも、今なお、その小瓶に出会う人がいて、
そして何かを感じて、お返事をくれていることに
すごく、すごく感動した。
私は、そのときの状態からは既に抜け出せていて、
だからもう、大丈夫なんだけど、
あのときの私に頑張れって思ってくれたこと、
おんなじだよ、って言ってくれたことすべてが、
嬉しくてしょうがなくなった。
その小瓶に、小瓶主としてお返事を書こうか迷った。
もう、大丈夫ですよって。
みんなの言葉、全部読んで、届きましたよって。
でもそうしたら、その小瓶が、ひとつの終わりを迎えてしまうから、やめた。
あの小瓶が今でもたまに浮かんでくるのは
私ではないどこかの『わたし』がそれを必要としてるからなのかな、と思って。
それだけたくさんの人が拾ってくれてきたということは、
自分で言うのはおこがましいけれど、
たぶん他の小瓶より、不特定多数の人の琴線に触れやすい
普遍的な内容だったからかなと思う。
だとしたら、小瓶主ではなくても、同じことを抱えている人にとって、
きっとあの小瓶とそのお返事に出会うことで感じることがある。
もう私自身が読むことはなくても、
また色々な人があの小瓶を拾って、
その人の『いま』とリンクしてくれるなら、
ヘタに、もう解決した過去のことにする必要はないから。
でもどこかで、ありがとうを伝えたくて、
新しく、数年ぶりに小瓶を流してみることにしました。
あなたたちの人生と、小瓶を通して交わることができて良かったです。
いつかまた、どこかで出会ったその時はよろしくお願いします。
ありがとう。