誰かに、聞いてほしくておたよりを流します。
朝、寝起きのまどろみになかで、
わたしと母が出て行った後の、あの家のことが浮かびました。
これ以上のとばっちりは嫌だと、自らの身を守るため
少しずつ、荷物を運び出し
かなり日が経ってから、最後のこまごまとしたものを
取りに行ったとき
すでに、部屋はそうじされていない、男所帯特有の汚さに
すり替わりつつありました。
日常的に、母親が、拭き掃除をしていたから
この家は整って、表面的なことだけではあったけど
それでも、上っ面の秩序は、
そういうことの積み重ねで保たれていたんだなと
反対側を見ることで気づかされました。
今まではそれしか思うことはなかったけど、
今朝は、なぜでしょうか?
そんな、ほこりの目立つ部屋の中で、父親は、あれから
どんな気持ちで過ごしていたのだろう?と。
恐らく、最後まで、誰かにすがらないと生きていけない
人や、アルコールや。
そんな人生だったろうとは思います。
悪態が多いのは、極度の自己否定や、そんな自分に対する罪悪感も
どこかにはあったのではないかと思います。
だからって、そんな自分だからこそ、面と向かうことは
避けてしまいたいから、そんな体たらくを選択したのでは
ないかと思います。
10代のわたしには、自分自身の心の中も
開いてみれば、父親と変わりはなかったから
そんな視点すらないまま、微かな罪悪感はまといながらも
振り切るように、利己的に振る舞いました。
余裕がないというのは、別の視点がないというのは
結果、家庭というものを修復出来なかったとしても
つくせるベストすらないということだから、
なんともつらいことだなと感じました。
父親が亡くなるまで、父親のことを特に考えることはありませんでした。
避けているのではなく、興味がなかったからです。
わたし自身、個人的にいろいろ思うことがあり、
その時期と重なっていたこともあって、
今朝も含め、ふと、思い出す父親のことは
親というよりは、いち男性でもなく、いち、単なる人間をみる
視点で見つめている自分に
時間差で気づかされます。
たらればばなしでも、自己憐憫でも
センチメンタルもそこにはない。
淡々と、その出来事を、別角度から見たら
どうだったのだろう?
やっぱり、たらればばなしではあるのかな?