父が死んだとき、
高校2年生だった。
倒れた父を発見して、
焦って何もできない母親に救急車を呼べと指示したり、親戚に連絡したのは私だった。
私は冷静だった。
親戚は私を子供扱いして、
通夜や葬式についての話の輪に入れてくれなかった。私の席すらなかった。
部屋に行ってろと。
気がついたら式が終わり、焼いて終わった。
故人の子供である姉と私は蚊帳の外だった。
たった1人の父親、
父とのさよならの儀式は一生に一度、本当の意味で最後だった。
それがまわりの大人のせいで、配慮不足のせいで、気づいたら終わっていたのだ。
親戚はみんな終始けろっとしていた。
私から見るとパーティーをしているようにも見えた。
母は言いなりになっていた。
急死だったせいもあるが、
焦ってバタバタして誰かが進めたせいで、心が置いていかれていた。
確かになにもできないけど、
通夜や葬式についての話に入れてもらえていたら、ちゃんと自分の父親を自分の手で送り出せたと思えたと思う。
葬儀や供養は故人のためにあるものではない。
残された者のためにあるものだと思う。
思い残さないように、最後の時間を大切に過ごすために。
それなのに私と姉は何にもさせてもらえない、話に参加すらさせてもらえない、お客さん状態だった。
私には後悔と親戚に対する恨みしか残らなかった。
6年が経った今でも許せないし、
親戚にも、母にも、
謝罪してほしいと思う。
ななしさん
あなたの気持ち、とてもわかります。
大切なお父さんが亡くなったのに、あれよあれよという間に終わってしまって、あまりにもあっけないですよね。
祖父母や親戚を亡くしたのとは、違いますもんね。もっと、親戚の人たちは親身に、あなたの心に寄り添うべきだったと思います。父親を亡くした子どもの気持ち、決して軽いものではありません。
気休めにはならないとは思いますが、通夜や葬式の話は、思っている以上に現実的な話だったりします。悲しみにくれる暇もないくらい、お金等の問題が出てきます。
また、大人になっていくと、人の死がそれほど遠い存在ではなくなってきます。
家族や親戚の中で、いつ誰がどうなってもおかしくないといつも思うので、まずは事務的な対処になってしまうのも事実です。
お父さんを亡くしたばかりのあなたやお姉さんが知らなくてもいい話もあるかもしれないので、もしかしたら親戚の人たちは、子どもであるあなた達に一応配慮したのかもしれません。
もしあなたが、葬式の話に参加していたとして、お父さんが死んだという時に、親戚たちから葬式のお金の話が出たとしたら、どう思いますか?
それはそれで、その時のあなたはきっと納得できなかったかもしれません。
結果的にはその親戚の対応が、あなたの心を置き去りにしてしまったのでしょうけど、あなたは、親戚中の誰にも、お母さんにもできなかったことをしたと思います。
大切なお父さんのため、冷静に判断して対処したのは、他の誰でもないあなたです。
私が高校2年生で、同じように的確な判断は出来なかったと思います。
葬式、納骨、一周忌から最大五十回忌まで、あなたの言う通り、それは残された者のためのものですよね。
でも、悲しいかな人は忘れていく生き物です。仏教は特に、よく考えたなぁと思います。ことある事にこのような法要を設けて、個人を偲ぶようにしているのかなと思います。
また人は、「2回死ぬ」とも言いますよね。
1回目は肉体的な死で、2回目は忘れられることによって死ぬ…と。
葬式やその他の法要は、単なる「機会」でしかないと思います。
葬式の話に参加できなかったけど、あなたはいつもお父さんを思っているから、送り出すことよりも大切なことをしていると思います。
送り出すだけなら、通夜や葬式で誰にでもできます。でも、いつも思い続けることは、本当に大切に思っていなければできません。
お父さんはきっと、娘であるあなたに思い続けてもらえていることを喜んでいると思います。
後悔よりも、親戚への恨みよりも、あなたがお父さんとの思い出や、大好きだったことを思い続けることの方が崇高です。
ぜひ、いつまでも、お父さんを思い続け、大切な思い出を忘れないでいて欲しいな…と思います。