絶望的に意見が合わない人っていますよね。
例えば自分が「AがあるからBで、だからこそCなんだ」と思ったとします。それとは別に「BだからAで、ゆえにDになる」というように、同じ事象を見たところで観点が違うからか、全く結論が異なる人が誰にとっても一人か二人はいる筈です。
どちらもそれぞれに筋が通っていて、でもそれがお互いから見たら見当違いな事なのです。
それはきっと、大切にしたいものだとか、重きを置くべきものだとかの順番が違うのからなのでしょう。
その場合、貴方はどうしますか?
感性の合わない相手を理解できるまで根気よく向き合いますか?
それとも反対に、彼ら彼女はそういう人で自分とは違うのだと割りきりますか?
私の場合、その相手が母親であり、姉なのです。
私にとって彼女等は理解できない生き物でした。本当に同じ文化の中で育った同じ人間なのかと感じる程に、彼女らは私の考えの外側をいく人たちでした。いっそのことエイリアンと言われた方が納得できます。
しかし、私が彼女らを不可解だと感じるように、彼女らも私をそう感じているのです。「貴方は個性的だ」というのがその代表例ではないでしょうか。
自身の常識から逸脱する存在を個性的─特殊だと判断することで、自分の世界の平穏を保っているのです。
殆どの人から独特だと評価されるので、私の場合は本当に"変わっている"のでしょうね。
お互いが共有する筈の常識がずれているのですから当然、共同生活は破綻します。たとえそれが家族という名前がついて同じ名字を名乗っていようと、同じ人間ではないのですから。
その時に真っ先に不徳を責められるのは誰でしょうか?
もちろんその原因となる人、この場合は私か彼女たちです。そしてまた、正しさの示準の一つに多数決があります。
よってこの場合、私が和を乱したことになります。私が悪いことになります。
さて、仲間内で不都合が起こった時に殆どの人は問題解決にいそしむでしょうし、その手段として話し合いによる相互理解を取るでしょう。
ですがここで前述の質問に戻ります。理解できない相手に向き合うか、向き合わないか。
私は後者で、家族は前者でした。
一方が対話の席についていないのに、話すことなぞないでしょう?ですが彼女らは違ったようです。
「話し合えばきっと理解し合える。それが家族なのだから」それが彼女らの意見です。
ゾっとしました。それが出来ないから私達はこうなっているのに、それを見もしないで解り合えると宣うのですから。
「私達はそれぞれ違う人間なんだ。理解なんて出来るわけがない。だからこそ、お互いに必要なのは配慮と距離で、話し合いではないのだ。いくらお互いの意見を聞いたところで、エイリアンの主張になるだけだ。」これが私の意見です。
それに、特に母は自分と対峙する意見を認めません。頭ごなしに叱られるのなら、言う意味すら無いのではないでしょうか?
聞かれない言葉に、伝わらない意図に、意味はあるのでしょうか。
向き合うもなにも根本が違うのですから。
私達はどうすればいいのでしょうか。
どこまでいっても平行線ですから、独り立ちの後に縁を切ればいいのでしょう。ですが、母からの私への扱いは未就学児です。大学進学とともに一人暮らしを仄めかせば否定されました。
もしかしたら私になにかしらの非が有ったのかもしれませんが、私からすれば無かったのです。
真に理解出来ない相手に対し、穏便かつ緩やかに離れるにはどうすればいいでしょうか。
もしくは、相互理解を諦めて貰うためにはどうすればいいのでしょうか。
主観まみれの文ですみません。よろしければお返事お願いいたします。