雑記つれづれ。
今日、なんとなくこういう記事を読んでいたら、
http://ameblo.jp/kokoro-ya/entry-11922743017.html
流れで、こういう記事があった。
(先日、キックミーについての記事があって、
プラスαの記事)
http://ameblo.jp/kokoro-ya/entry-11922871983.html
ああ、そうだな、一番楽なループだな、
あるあるだな、って思った。
身につまされるな、って。
「だって私は、こんなにえぐられるような感情経験をしている」という
意識が高ければ高いほど、
そのゲームから降りることを拒む。
わたしは、これって、正直、何十年も、もう直らないから
無理かな?って諦めて
暮らしていたんですが(キックミーのひとなの)
自分の気持ちのもち方次第で、意外と、そんなにそこに
とどまり続けなくても、十分生きていけるんじゃないかって
ここ数ヶ月の中で、感じています。
なだらかな坂を降りていくような感じでしょうか?
話変わりますが、私は、人間には、
他人の思惑を外した上での、素の「やりたい、こうしたい」の
能動的な感情があると思っています。
服従することで、自分の居場所を仕入れて来た人間は、
単に、使ったことがない回路だと思います。
見たことも、感じたこともない、という
私みたいな人もいるくらいだから、
世の中には、あと3人くらいはいるんじゃないか思っています。
美醜、老いについて、たくさん考えてしまった夏でした。
きれいなものが、なぜ好きなんだろう?も
同じ流れにありました。
自分の場合、どうしても、その流れからは、考え方として、
生きること死ぬことから
逃れられないし、それ、抜きにしては
話にならない、ということもよくわかりました。
かわいい、きれいという、単なる造形ではなく、
自分にとっては「うつくしい」というのが
一番なにより、ドキュンとくるというのも
よくわかりました。
「うつくしい」は、自分の弱さ、汚さ、愚かさ、
負とカテゴライズされがちな感情も
自分ももっている、ということを認めたうえで、
どう踏み出すか?の覚悟がある人間のことを
言ってます。
(これは、個々に捉え方は様々だと思います)
偏りループに入り込む前に、
椅子を一脚買いました。(無印だけどね)
疲れたとき、それに座ると至福です。
ものすごく、いい買い物をしました。
なぜ、きれいなものがすきなんだろう?
その疑問の前に、横たわる気持ちの方が
とても大事だな、と感じることが幾度もあります。
(多分、これに限らず)
自分の本音に蓋をしているときに
それを感じるときは、大抵「代替品」が欲しいだけの
ことが多いです。
きれいなものを手に入れることは、愛でることで
そのストーリーを作りたいだけのことです。
ストーリーの中に入り込むことで、
日常からは手に入れにくい、求め求められる「あい」が
得られる錯覚を欲しているからです。
気持ちはわかるけど〜(我が事だし〜)
でも、やっぱ、バカみたい。
所詮、代替品。
ホントに、欲しいものを取りにいけばいいのに。
なので、ちょっと、書き出してみたりすると、
思いもしない本音が、ぽろぽろ出てきます。
「そのベースがあるとき」、
たまたま、何かを欲しているとき、
それは、大抵自分にとって「うつくしいもの」と
感じるのですが(形状の美醜ではなく)
そんときの、それ、は、活きた「それ」なので、
手に入れることに躊躇がないし、あとあと後悔もないことが
ほとんどです。(椅子買ったときも)
↑その後、ガタガタに崩れていったが。
話変わりますが、
男の人が死ぬまでもってるであろう、少年性、
女性なら、少女性、そして、どちらも逆の部分も
持ち合わせているけど、
私は、オッサンみたいなとこがあるので、
小さい頃から、逆に女性のようなマイルドさがある
男性といると、しっくりくるな〜とか、
改めて、腑に落ちがあったり、
今年はいろいろしんどかったけど、
あらがって、逃げて、
醜態をさらして、その後、逃げなかった夏でもありました。
まあ、ほんとにきれいにみえるものというのは
意外と、きれいじゃない部分も
飲み込んでいるからこその、輝きかもな、が
重複しますが、まとめです。
日記かよ!
まいたん