何を信じるかで人生も人格も決まる
これだというものが見つかった時やっと人になれるだろう
物心ついたと同時に自分を持っている天才たちもいる
これだと思おうとしても、他にも何かあるんじゃないか?と疑ってしまうかもしれない
その疑いは正解かもしれないし間違いかもしれない
自分を持てたとしても、それをどこまで貫けるかという観点でまた人は試されることになる
死ぬまで試されるのが人間なんだろう
名前のない小瓶
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お返事が届いています
ななしさん
考え過ぎると本末転倒になりかねない
ななしさん
【小瓶主さんからお返事きたよ】
まいたん、もしそうなったらバッグに詰めこんでるやつを捨てます
2通目さん、 言いたいことはわかりました
だいたい同じ意見です
3通目さん、自分は変えたくない答えを見つけたので捨てるという考えは持ってないです
とらわれることが危険かどうかは何にとらわれるかの問題なのかなと感じます
主より
ななしさん
私はこの世界に答えがあるとは思っていないから、いつも絶対にこれを信じるということはしません。
人から聞いた事を、自分でよく考えてから納得したり、しなかったりします。
それも自分を持ってるからだと思いますが、自分というものも、人と関わることによって変化していくものなので、ずっと貫き通してる人っていうのは思考停止してるのかもしれません。(一概には言えませんよ!)
迷って生きるのが人生の醍醐味じゃないですかね
ななしさん
言いたいことがある。
たぶん試しているのは神なんて訳のわからないものじゃない。
自分か、自分の中で響いている誰かの声だ。
何も宗教的で、幻想的で、夢物語のような話ではない。
科学的でいて、非科学的なものだ。
というのも、科学は後から見たものを確立する話だからな。本当のところ現実的なものじゃない。
本当に現実的なものが、試している。
それに窮屈さを覚えたものは、試される、の土俵には上がらず、別の方法を獲得したりもする。
そういうものを、生き物は受け継いで来ているんだろうね。
背負っている自覚もなしに背負わされているとも言えるし、そうじゃなくて背負うかを選択できることもあって、そもそも背負わないもの、もしくは背負わないようにするものもいる。
信じるものは救われる。でも、それは訳も分からないものを有耶無耶に盲信することじゃない。
まず神とは何かを考えることだ。わからないことを自分の信じる自分なりにはっきりさせることだ。
そしてそれを、決して自分正しさに取り憑かれることなく、常に少しでも行っていることだ。
その上でこれだと思ったものを見つければ、人は良い意味で人ならざるものになる。
それは何も特別なことじゃない。
人はその姿に共感し、人ならざる姿に恐れをなす。
その姿が自然になった時、人から抜け出すことに難儀するものはとうとう共感を手放し、不気味さを抱きつつ共感を諦める。
自身にもそれがあると非常によく理解しているからだ。だからこそ人ならざるものを恐れる。
それは人であって人ではないのだと。
そうして、姿だけなら同じとも言える人ならざるものに、殺されていくものたちもいた。崇められるものもいた。
けれどそれは何も特別なことじゃない。
古今に続き、よくあることだ。
決してそれは神などという訳のわからないものではない。あくまで人ならざる人だ。人間でしかない。
主さんの言われる天才は、たぶん人によるところもあるが遅いか早いかだ。求めるものではないし、求めることの出来るものでもない。
ただし、その後に自分を持つということは、意識しないと出来ないと思う。保つことだし、貫くこと。
試されているというより、自分を持った状態と方法に体が難儀しているのではないかと思います。
などと適当なことをなんとなく抜かしてみました。作り話?知らんよ。
名前のない小瓶
そのために、なるべく、のりしろは作っておくと
風通しもよくなるからいいのかもしれないね。
(せっかくすてきな新しいものに出会っても、
置き場がないと入れられないし)
と、私は思ったよ!
断捨離・・?
ななしさん
一生涯自分を持てない生き方もやっぱり自分なんじゃないですか。
以下はまだお返事がない小瓶です。
お返事をしていただけると小瓶主さんはとてもうれしいと思います。